「アッシュ……」 「うるせえ! しつけえんだよてめえは!」 「でも!」 「帰らないと言ってるだろう!」 アッシュの本気の怒声を聞いても、ルークは引き下がることが出来なかった。 先日バチカルに寄った時に見た、あの母親の表情が忘れられない。 たまたまバチカルに用があり、ルークたちは今夜の宿をこの街で取ることにした。 用事を済ますと、仲間たちと同様、宿へ向かうルークに彼らは呆れた顔をする。近くに家があるのに宿屋に泊まるなんて馬鹿らしいことは無いと言い、気を遣ってルークだけを見送った。 久しぶりの屋敷。 門をくぐれば相変わらずの光景がルークを出迎え、大事はないことを確認した。メイドたちに出迎えの言葉を落とされていると、ラムダスがこちらへよってくることに気が付く。 彼はまずルークの帰還の喜び、ふと声を落としていつもの無表情になった。 「ルーク様。実はこのところ奥様のお加減が少々思わしくありません」 「……そうか」 母はもともと体が弱かった。その体ではこのところの情勢は堪えるものなのだろう。 ラムダスはしかし、自分が帰ってきたことで母は喜ぶと部屋へと促す。 「失礼します、母上」 騎士が守る重厚な扉を開いてもらうと、ベッドに臥せる母がいた。幼い頃からの見慣れた光景なので酷く動揺することはないが、いつだって母が床についている時は胸が重い気持ちになった。 息子を待っていたのか、シュザンヌは体を起こしてルークを出迎え、その帰還を喜ぶ。 「ルーク。帰ってきたのですね」 「……ええ、一晩だけですが」 「そう。いえ、それでも嬉しいわ。もっとよく顔を見せて頂戴」 請われるままにベッドの縁に腰をかけると、すぐにか細い手がルークの頬に当てられた。 「つらいことはない? 傷は? ちゃんと食事は取っているの?」 間近で覗く不安げな表情にルークの心が締め付けられる。投げかけられる質問に全て頷き返し、懐かしい母の温もりを感じる。 久しぶりに見た母は、以前よりも儚く見えた。臥せっているということもあるだろうが、その原因を作っているのは間違いなく自分だとルークは感じる。 目まぐるしく動く世界情勢のなかで、自国の不安もあるだろうが一番彼女に負担をかけているのは自分というレプリカの存在だろう。 今まで育ててきた息子が息子ではなく、偽者だったのだ。それが堪えない訳が無い。 それでも彼女はルークとの接し方を変えたことは無かった。 何事も変わらないというようにルークにあたたかく接してくれる。そこに義務感やためらいはなかった。変わらずに息子だとも言ってくれた。 しかしそれが彼女の本心だとしても、本物の息子、アッシュのことが気にならないわけがない。 シュザンヌはなるべくアッシュの名を出さないようにしているのか、ルークの前でその名前が出ることはごく少数だった。気にしていないのではなく、ルークを気遣っているのだろう。それがルークには辛い。 いくらルークが被験者と完全同位体のレプリカだとしても、本物にはなれない。何年この家で過ごそうが、所詮偽者は偽者で、本当の「ルーク」にはなり得ない。 シュザンヌは何も言わないが、きっとアッシュに会いたいに違いない。自分にかけてくれる情を偽物だとは思わないが、アッシュの事だって心配であろう。先ほどかけてくれた言葉は、おそらくアッシュにも聞きたい言葉なのだ。 笑う顔もどこか寂しげで、ルークの胸は締め付けられた。 だからアッシュに一目だけでも、と母親に会うことを請うのだが、アッシュは聞き入れない。 そのことを告げるだけでアッシュは声を上げて全身で拒否をする。彼が家族を拒否するのは他でもない自分のせいだとわかっている。幼い彼から自分はすべての拠り所を奪い、彼に取って代わって暮らしていた。アッシュのその気持ちはきっと彼にしかわからないもので、自分なんかが想像するよりもずっと辛い時間を過ごしてきたのだろう。 だがそれでもシュザンヌのことを思えば止めることは出来なかった。 「母上、お前のこと心配してる。このままじゃ良くなるものもよくならない! お前だってそれは嫌だろ?」 アッシュは母親のことを忘れたわけではなく、今でも大事に思っていることは知っている。 本当はアッシュとて母に会いたくないわけがないのだ。それを出来なくさせている自分という存在が心底憎く感じるが、今はそれを嘆いてもどうにもならない。 母親を引き合いに出すとアッシュも言葉が詰まるのか、奥歯を噛みしめるように口を閉ざしている。 「頼むから……」 大事な人たちを幸せにすることが出来ない自分が居たたまれず、ルークは懇願の思いを込めて訴えた。 ■■■ その晩、アッシュはひとり窓の外から部屋の中をうかがっていた。 身を隠すようにして覗く室内には、ルークの言っていた通り臥せる母がいた。 以前見たときよりも痩せたような顔はあまり健康だとは言えなかった。母の体が弱いことは知っていたが、昔見たよりも今の母が辛そうに見えた。 自分がそうさせた。 そう思うと何もかもがやるせない気分になる。どこで歯車が狂ったのか。どうしてこうなってしまったのか。 大事なもの全てを奪われた時、心の均衡を図るためそれら全てを「捨てた」と思い込んだ。そうでもしなければ幼い心は壊れてしまっただろう。大切な人は皆自分ではない作り物を「ルーク」とし、以降己は必要とされなくなった。繋がりは断たれたのだ。 捨てたものを容易に取り込めるほど生易しい年月ではなかった。何かをこんなにも憎めるのかと思うほど憎んで、それを糧にして今までを乗り切ってきた。 捨てたはずのものが恋しいと思う期間など、とうに過ぎている。 「ルーク、アッシュ……」 しかし母が自分をまだ息子と思っていてくれると知るたびに心は乱される。厳格な父の代わりのように優しく、あたたかかった母のぬくもりは消そうとしても消せない記憶だった。 今確かに呼んだ自分の名を噛みしめる。己はもう「ルーク」ではないのに、それでも母は微かでも求めてくれているのだろうか。 薄暗い室内を見つめながら、アッシュは長い間佇んでいた。 ■■■ 屋敷に行く、とルークに連絡が入ったのは翌日のことだった。 すぐにでも、と急くルークに、アッシュは夜だと言った。誰もが寝静まったような時刻に、誰にも知らせずに部屋の窓から入ると。あらかじめ窓の開錠をしておき、警備のものにも一応一言口添えしておいた。アッシュのことは言わないので不審に思われたが、シュザンヌのためだといえば昔からの老騎士は納得してくれた。 バチカル郊外で待ち合わせ、二人で窓から入る。 「……誰ですか」 あまり物音は立てないようにしたつもりだが、元から起きていたのかシュザンヌは怯えを含んだ声を向けてきた。父はまだいないようだった。 「俺です母上」 早く安心させようと寝台に歩み寄り、こんな深夜に窓から入るという非礼を詫びる。微かな月明かりに照らされる姿と声に確かに息子であることを確信したシュザンヌは肩を下ろした。 「まあルーク。こんな時間にどうしたのですか? 何か急を要したことでも……それに隣にいるのは―――」 そこでシュザンヌは言葉を切り、震える声でルークの傍にいるもう一人の人物に呼びかける。 「―――アッシュ? もしやそこにいるのはアッシュなの?」 「……母上」 「そうなのね。ああアッシュ、もっとこちらへ。顔を見せて」 それが夢や幻ではないことを実感したいと寝台の上でアッシュに両手を伸ばす。少しの間だけ、アッシュは躊躇うように動かなかったが、母の求める声に意地は続かなかったのか、やがてその足を母へと向けた。 苦い顔でシュザンヌの前に立つと、母はすかさずアッシュを腕に抱きこんだ。細い手を懸命に伸ばし、弱々しいながらも力強く息子を抱きしめ、何度も何度も名前を呼ぶ。 アッシュは動くこともせず、母のされるがままでいた。だが母親との対面が嬉しくないはずが無い。 ルークはそんな親子の情景をただ黙って見ていた。 本物の息子の無事を確認でき、これでシュザンヌの具合もよくなるだろう。先日見た儚げな姿からは想像出来ないほど彼女は笑顔で、今は声すら張りがある。 やはり本物の息子は違うのだろう。当たり前だどんなに姿形が同じでも、例え遺伝子すら同じでも、彼女の息子はただ一人、アッシュなのだ。名前が違ってもアッシュはシュザンヌの息子であるし、いくら名前が「ルーク」でも自分は彼女の息子ではない。 わかっていた。誰よりも自分がわかっていたはずだ。 だがこうやってアッシュとシュザンヌを見ているとどうしても心は痛んでまともに彼らを見やることが出来ない。アッシュと自分との差を目にするのがとてつもない恐怖で、おそらくそれを見てしまえばしばらくは二人に会うことは出来なくなりそうだった。 以前のように部屋に二人を残し、自分は外で待機しよう。そう思って窓縁に手をついたとき、背後から声が掛かる。 「……ルーク? どちらへ行くのですか」 「―――いえ」 なんと言えばいいのかわからなかった。本音を告げればシュザンヌの顔は曇るだろう。シュザンヌはやさしい。そんな彼女が自分をそのまま外に出すようなことはしないだろう。 しかし他に彼女が納得するような理由も無く、ルークは黙するしかなかった。 そんな自分に、シュザンヌは苦笑気味に笑み、アッシュから片腕を外してこちらに向けてきた。 「ルーク。あなたもこちらへ来て頂戴」 「ですが……」 「ルーク、お願いだから」 断ることが出来なかったのはやはりどこかでその言葉を期待していたからだろうか。アッシュ以上に躊躇いつつ、やはり名前を呼ばれればそれに逆らうことは出来なかった。 ゆったりとアッシュを傍に置く母に歩み寄ると、彼女はアッシュとルークを両脇において二人一緒にベッドに座らせる。戸惑いながらそれに従うと、頭に華奢な腕が回り、懐かしく、やさしい香りに包まれた。 すぐ傍ではアッシュが同じように母の胸に引き寄せられ、同じ体勢で片腕ずつ抱きしめられていることに気付く。 シュザンヌはアッシュとルークの二人の名を呼び、愛おしそうに二人の息子の頭に頬擦りをしていた。 二つの名前は、次第に「ルーク」とだけを呼ぶようになった。 しかしそれはルークひとりを指すわけではなく、アッシュの本当の名前をも指しているのだろう。彼女にしたらアッシュにどんな名前がついていようが彼は「ルーク」なのだ。どんなに離れていても、どんなに会えなくてもアッシュが息子なことに違いはない。 アッシュにもそれが伝わっているのだろう、ふと落とした視線の先では固く目を瞑って何かに耐えるようなアッシュの顔があった。涙が無いだけで泣いているような表情にたまらなくなり、ルークは改めて自分の生を嫌悪した。 レプリカは、大切な人ほど幸せに出来ない。 平穏とは程遠いところにあり、いつだって悲しみ、厭われる存在だ。これまで幾多もの街で目にしたレプリカに対する酷い行動は彼らの素直な心に他ない。自分と彼らと何が違うのか。自分など、ただ超振動を起こすことが出来るが故にまだ生きることを許されているようなものだ。それすら元であるアッシュの能力であり、自分自身が何一つ役に立ったことは無い。 だからといって自ら死ぬことも出来ない自分は本当に狡い生き物なのだろう。 やさしい彼女が与えてくれる「母」という無条件に縋れる拠り所と、そしてアッシュを視界に入れていたいという欲に縋って、彼らを断ち切ることが出来ないでいる。いつでもどこかに自分が存在してもいい理由はないかと探っている。 シュザンヌはもしかしたらこの七年のことで本当に自分を息子だと思ってくれているのかもしれない。その七年だけは、シュザンヌの息子はルークだった。そうでなくても、こうやってアッシュだけではなく自分も受け入れてくれるだけで、泣きたくなるほどに救われている。 だが一方でやはりそれでいいのだろうかと思う自分もいる。 自分というレプリカが存在しているせいでアッシュは幸せになれない。彼がどう言おうとこの居場所はアッシュの、本来のルークの場所であり、偽物がいていいわけがない。 手放しに帰っておいでと言えない母と、帰りたいと言えない息子。 そんなおかしなことをさせている自分など、消えた方がいいのだ。それはわかっている。だがそうしてもやさいシュザンヌは悲しむであろう。ずっとそのことを心に病んでこれからを過ごさせるのは、彼女の体を思えば躊躇いが生まれる。アッシュとて気持ちのいいものではないに違いない。何よりルーク自身がそれを決断できないでいる。 どうすればいいのだろう。 欲のまま生に執着して愛する人たちを悲しませることと、やさしい人達に苦いものを残させて自分が消えることと。 答えなど出せなかった。いや、本当は答えを知っている。だけどこの母親のぬくもりに抱きしめられていると浅ましいほど生きたいと思ってしまい、決め付けることが出来ない。傍にいる、誰よりも幸せにしたいと思うアッシュにこんなにつらそうな表情をさせているというのに。保身を思う自分が酷く醜いように思えた。 止むことなくルーク、と名を呼び続ける母の胸に抱かれながら、ルークは自分がアッシュと同じ表情をしていることに気がつかない。ただ己の存在に罪悪を感じ、心の中で二人に謝り続けていた。 アッシュが両親と再開後の話なのにルークは乖離知らないような不思議な話になってしまいました…。 |