abyss ss






街で人目も憚らずにいちゃいちゃしている二人を、気がつけばルークは無意識に凝視していた。
視線の先ではこの街の者であろう若い男女がベンチにもたれており、微かな隙間さえ空けないほどに密着している。腕を組み、そして男が女の頬に口づけたりと、なんとも親密な様子である。
よくやるよ、とルークははじめ半目になっていたのだが、そういや自分はアッシュから頬に口づけてもらったことはあるのかと思い浮かべると歩みが止まった。


(……ってないないないない!)


それはもう考えるまでもないというやつである。
唇同士を合わせるのならば幾度か、それもアッシュからがほとんどだが、あの二人のようにいかにも恋人同士というような甘い行為は一度もないように感じる。
当たり前だ、自分ですらクソ恥ずかしいと感じるそれを、あのアッシュが仕掛けるとは到底思えない。

ルークとしては唇にだって恥ずかしいと思うのだが、頬は直接ではない分独特の甘ったるさがあり、それが曲者だった。それでも衝動に負けて数回仕掛けたことはあったが、いつだってその後は猛烈な羞恥に襲われたものである。あの気恥ずかしさは半端ではない。

あのアッシュが俺の頬になんて、と想像したところでルークの顔が赤く爆ぜた。


(な、何を想像してんだ俺は!)


頭の中の虚像だというのに、とてつもない衝撃だった。
止めろと思うのにその瞬間をリアルに想像してしまい、襟を引っ張って赤いだろう顔を隠す。
虚像なのにくすぐったさで身もだえる自分を馬鹿だ馬鹿だと罵りながらも頬の熱は勢いを失わない。周りの仲間が不審がっているのもわかったが、自分ではどうしようも出来なかった。
時間が経ってもどきどきは治まらず、その後も脳裏に描いた映像に悩まされ、ルークの頭は以降の機能を停止した。





■■■





いつもの逢瀬の時間。
ルークは始終物言いたげな視線をアッシュに送っていた。
あれから一週間は経とうというのにもかかわらず、あの時の想像は頭から離れないままでルークを翻弄していた。欲してしまったのだ、想像を現実にと。
無理だろうというのは重々承知している。なんせ相手がアッシュなのだから。
しかし一度ぐらいは味わってみたいという望みが強く、なんとかならないものかとこうして頑張っていたりする。


(ったってなあ……)


しかしそうされるに当たっての作戦など、ルークには思い付かなかった。
いや、正確には思い付いても無理だったのである。
素直に頬に口づけして欲しいと言えればいいのだが、それは愛を紡ぐよりも難しいものだった。そんなことを口にする自分を想像しただけで頭を掻きむしりたくなる。
言葉が無理なら態度でどうにかならないかと思ったが、言葉を使わずにどう示せばいいのかが問題である。
アッシュの頬に唇を落とした後に己の頬をちょいちょいと指させばいいのか。――これも想像だけで叫びたくなった。
言葉も駄目、態度も駄目でどうすればいいのだろうと思いながらアッシュを見つめていると、彼は鬱陶しそうに言葉を吐いた。


「さっきから何だお前は」


気色悪い、と言葉に滲ませるアッシュの様子に、やはり無理だとルークは改めて思った。
今欲求を口に出せていても、頭にカビでも生えたのかと馬鹿にされるのが落ちであろう。
大袈裟なほどに溜め息をつくと、アッシュの眉がぴくりと動く。


「てめえ、屑、喧嘩売ってんのか」
「え? あ、違う違う! そうじゃないって!」
「ならなんだ」


じろりと不機嫌そうに睨まれたが、こればかりは言うことができなかった。必死な顔で首を振って言えないことを告げる。
だがそれで引くアッシュではない。
拒否されたことにより更に不機嫌になってルークに詰め寄る。
いつもならそこで白状するルークも、いくらなんでも今回ばかりは内容が女々し過ぎて苛々オーラにも負けずに首を振り続ける。
しばらく馬鹿らしい掛け合いが続いた後、どうにもならないとわかったのか興味を無くしたのか、やがてアッシュは「もういい」とルークから視線を反らした。


(あ……)


安堵するはずの心は、それよりも寂しさの方が勝った。助かったのに後悔するような、複雑な気持ちになる。
言えばよかったのだろうかと考え、いや、と首を振る。やはりどうあっても言えるような内容ではなかった。
しかしそのことによって場の空気が妙なものになったようで、ルークは身の置き場もないような情けない気持ちになった。


「……あの、アッシュ」
「………」
「別に、その、隠し事とかそういうのじゃないんだけどさ、なんていうか言えば絶対アッシュ俺のこと馬鹿にするだろうし、あ、馬鹿にするって言っても今までとは比じゃないぐらいのやつで」
「――しねえって言ったら言うのか」
「え?」
「お前がどんなに馬鹿でアホでどうしようもないことを言おうが今更だ。何を言っても覚悟は出来てるから言え」


とてつもなく不遜な言い方で、今のルークでなければおそらく反論もあっただろう。
しかし色ぼけしているのか、アッシュのその言葉が今に限った話ではないもののように取れ、少しだけ胸が熱くなる。他の誰よりもアッシュに存在を肯定して欲しいルークにはそれは殺し文句に近かった。


「……本当に、絶対に馬鹿にしねえの? 多分想像以上だぞ」
「ああ」
「怒るとかもしない?」
「ああ」
「き、嫌いになるとかもナシだからな!」
「……ああ」


やけっぱちでどさくさに紛れて零した言葉にも肯定の返事をもらうと、軽いと思いつつもルークはほだされてしまった。
それでも面と向かって言う勇気までは湧かなかったので、膝立ちでアッシュのそばに寄り、他に誰もいないというのに最小限の声で耳元に落とす。


「――――――なっ」


しかし告げた瞬間、はじかれたようにアッシュはルークから身を離した。
その顔は赤らんでおり、決して嫌悪の表情などではなかったがそれを見ただけでルークは喚きたいほどの羞恥を催された。覚悟はしていたが、それをはるかに上回る恥ずかしさである。
何事もなく素直に試行してくれるとは思ってなかったが、相手が恥ずかしいと思っているのがわかるのはこの上もなく気まずい。
体を離したままアッシュは動こうともしなかった。確かに馬鹿にされたりはしていないようだが、これはこれで勘弁して欲しい。
アッシュの気持ちもわかるので文句も言うことすら出来ず、結果、二人は視線を合わさずに奇妙な沈黙を守ることになった。


「そ、そういえばこの間ガイがさあ……」


この空気を打開するには話題転換しかなかった。
あからさまに不自然な話題を投げかけると、内容は特別話題にするほどのものではない、どちらかというとくだらない類の話にもかかわらずアッシュは乗ってくる。
相手も困ってたのだと思うとやはり顔に血が上り、そしてほんの少し心も痛んだが気づかないことにした。

そうこうするうちに始めはぎこちない会話も時間が経つにつれて次第に平常を取り戻していき、羞恥も収まっていくことができた。
アッシュからいつものようにきつい言葉を投げられたときは本当に安堵したものである。
それを期にルークのぎこちなさも失われ、あとは普段通りの時間が流れていく。
そしてしばらく経って別れの時間も近づいた時も、普段通りアッシュがルークを引き寄せて唇を合わせてきたのでこれにも安堵した。
先程のことがきっかけでこういった行為も仕掛けられないのではと危惧していたのだが、それは杞憂だったようだ。
穏やかな熱情を受けながら、ルークは思う。


(……なんか、もういいや)


こうしてアッシュを感じることが出来るなら、頬に、なんてたいしたことじゃないように思えた。
そうされずともやわらいだ気持ちになるし、親密さで言えばこちらの方がずっと高い。今だけでこんなにも胸が熱くなるのに、その他を望んでは罰が当たるというものだ。
すっきりした気持ちで唇を離すと、いつもと変わらないアッシュの顔があった。目を細め、微かに口の端を上げるその表情が好きで、しかし長時間見られずいつも俯いてしまう。
しかしいつもは放置されるそれも、今回は微かな間を置いて引いた顎に手をかけられ、再び持ち上げられることとなる。
もう一度だろうかと嬉しく思って見上げると、予想通り再びアッシュの顔が迫ってくる。
目を閉じ、やはり慣れずにどきどきしながら待てば、しかしやわらかな感触は唇ではない箇所に落とされた。


「―――!」


頬を押した感触に、ルークの目が大きく開かれる。


「あ、アッシュ……? い、い、今のって」
「黙れ」


何が起こったのかを問えば、音がする勢いで口をアッシュの手に覆われた。
そのままアッシュは顔を見せないようにルークの肩に顔を埋め、何かに耐えているようにじっとしている。何かは考えるまでもなく照れだろう。
そんなアッシュを見ていると改めて施された行為が本物であったことを実感し、たまらなく彼が愛しくなった。
くい、と何度もアッシュの服を引っ張って顔をこちらに向けると、口元に置かれている手をそっとずらす。
そして本日最大の勇気を振り絞る。


「あの、その、も…………もう一回」


治まってきていたアッシュの顔に再び赤がさした。だが、きっと自分の方がずっと赤い自信があった。
うるさい心音を持て余しながらアッシュの行動を待っていると、ふと口元を覆っていた手が離れていく。
駄目かと思ったが、しかしそれはルークから離れることはなく、位置を上へとずらしてルークの視界を塞いだ。
そして先ほど味わった感覚が再び頬に押し付けられる。
口とは違ってただ触れているだけなのに、どんどん気持ちが高ぶっていくのがわかった。

――やばい。どうしよう。嬉しい。

女じゃあるまいしとは思うが、嬉しいものは嬉しかった。むしろこんな気持ちを味わえるのなら女々しさ万歳である。
視界を塞がれているせいか、先ほどよりも鮮明な感触に胸がきゅうと締め付けられ、ルークはたまらずにアッシュにしがみついた。














こんな話が書けるのもアシュルクだけ。
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