ライドウ ss






銀座の街で捜査の最中に背後から声をかけられた。
振り返った先には、日傘を差す和服姿の妙齢の女。上品そうな仕草で微笑む彼女には見覚えがあった。最近探偵所に依頼をしてきたうちの一人だ。美貌の未亡人ということで、鳴海がやけに嬉しそうにしていたのを思い出す。


「今日はお一人?」
「ええ」
「そう。鳴海さんは事務所にいらっしゃるのかしら?」
「おそらく」


ライドウが出る前にはあの椅子に腰掛けて新聞を読んでいたはずだ。何かない限りは今も事務所にいるだろう。
ライドウが肯定を返すと、女は優雅に微笑んでもう一度そう、と呟いた。ライドウにはこれがただの社交辞令なのか、何か意味を含む微笑なのかはわからない。言葉を続けることも出来ずに佇んでいると、女はその笑みをたたえたまま「今度またいらっしゃいますようにと、鳴海さんにお伝え下さい」と言葉を紡いだ。
赤いくちびるがやけに印象的だった。






言われたようにそのことを鳴海に告げると、彼はああ、とそれだけを返した。美人と思われる者からの言葉に目に見えて喜ぶだろうと思っていたのだが、気分でも優れないのかそれとも何か含むのか、それ以上彼は何も言わなかった。触れてはいけないことなのだろうかと問い掛けそうになった口を噤み、どこか妙な空気の中でライドウはお茶を入れに別室へ向かう。
「予想外の反応だな」と愉快そうに零すゴウトに返す言葉も見つからず、淹れた茶を持って部屋に戻る。扉を開いた先では上着を羽織っている姿があり、微かに目を瞠った。


「あ、直接もらうよ」
「出かけるのですか」


机に置こうとした湯飲みを言われた通り鳴海の手に渡しながら問う。
事件かと思ったが、電話のベルは鳴らなかった。日を急ぐような依頼もない。何より今まで鳴海は暇そうに机に突っ伏していたはずだ。
過ぎったのは赤いくちびるだ。


「ああ、遅くなるだろうから先に休んでなさい。飯もいらないから」
「わかりました」


どことなく行き先を聞くことは出来ずに言葉を返すと、鳴海は帽子を被りすぐに事務所を出て行ってしまった。空になって返された湯のみの温かさがやけに存在を放っているようで、知らずに手で包むように覆う。
鳴海が探偵所を空けることも、帰りが遅いことも、そう珍しいものではない。飲んだくれたり、甘い匂いを纏ってくる時もある。前者ではそのままソファで寝てしまうので介抱しなければいけないのが厄介と言えば厄介だが、慣れてしまった今では思い悩むことでもない。後者も一般的な成人男性の欲求を考えれば当然のことだと思える。
ただライドウの知る限り、鳴海がそういう行為をするのはそれを生業としている女性が多く、今まで一度たりとも依頼人に手を出すということはなかった。外見が好みだからとそれだけの理由で捜査について来ることもあるが、それに入れ込んで何かをしたことはない。

おかしな感覚だった。
鳴海は行き先を告げなかったので、彼が今日のあの女のところへ行っているとは限らない。
しかし己の伝言の後に腰を浮かしているのは事実だ。そもそも伝えた時からなにやら空気は変わった。
ライドウはあの女性と話をしたのは依頼から初めてのことであったが、言葉から察するに鳴海はそうではないのかもしれない。
美人の、そして未亡人と依頼でもないのに会う意味は、やはりそういうことなのであろうか。
依頼人には手を出さないと言っていた彼の言葉をどこまで信用すればいいのだろう。
湯飲みを流しに置き、ライドウは主がいなくなってがらんとした室内で息をついた。


「気になるなら追ってみるか」
「まさか」


ゴウトのにやついた声に即座に首を振る。確かに気にはなっているが追うまでのことではない。なにより捜査でもないのにそういう行為を働くことは拒絶に近い抵抗があった。


「彼が誰とどのように過ごそうが自分には関係ない」
「その割にはやや平常に欠いているようだがな」
「――嫉妬している、とでも」


声を低めると、傍らの猫は目を細めるだけでそれには答えなかった。
馬鹿馬鹿しいとライドウは眉をひそめる。今まで鳴海がそういう夜を過ごしてきても特にどうとも思わなかった。確かに今回はやたらと心に引っかかるが、それは相手が依頼人ということだけが気がかりであって、他意はない。彼女との仲が知れれば社の信用問題に関わる。万が一子供でも出来れば大事だ。
鳴海に限ってそれは大丈夫だろうという思いはあるのだが、その可能性を思うと気が重くなる。
それ以外に含んだものはない。そのはずだ。


「しかしまあ、迫られるのがお前じゃなくてよかったじゃないか」


ゴウトのその言葉に、ほんの一瞬だけライドウは息を呑んだ。


「鳴海さんのあれはただの暇つぶしでしかない」


鳴海がこちらに女を口説くような台詞を寄越したり口付けを迫ったりするのは、自分の鉄面皮や反応を愉しむ以外にない。ことあるごとにそういう態度に出てくるが、ライドウにはとてもそれが本気のこととは思えなかった。いつでも軽口で飄々とした態度でいる鳴海の本気を一度も見たことがないライドウは、彼の言葉の真偽を何で判断すればいいのかわからないのだ。
そもそも女には不自由しなさそうな見目で、男の、そして年も一回り以上離れている自分を相手にするとは到底思えない。そうなるとやはり鳴海は自分をからかって遊んでいるだけなのだろう。

だからといってそれが苦痛なわけではない。突飛な行動で驚いたりはするが特に支障があるわけではない。
しかし考え込めば考え込むほど不快だった。気がかり、ではなく不快だった。赤の色がちらつく度に心がざわつく。思い浮かぶのは鳴海と親しくしている姿だった。笑いあう二人。肌を触れ合わせる二人。
自身の落ち着きのなさの根本にあるものは、今のライドウにはわからない。
知らずに目が細まるライドウを、ゴウトは笑って見ていた。


そしてその日鳴海は帰ってこなかった。
日の出に寂寥感を覚えるのは初めてのことだった。









こんな日もあったらいいなと。ライドウは嫉妬というものを知らなさそう。言葉や意味は知ってても。

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