ライドウ ss






「所長、少しよろしいですか」

机の主がが暇そうに新聞を眺めているのを確認して、ライドウはその身の前に立った。
やましいことが少なくない鳴海は少しばかり引き気味に新聞を置き、ライドウの射るような視線に向き直る。

「なんだい。小言なら勘弁して欲しいんだけど」
「いえ、今回はそうではありません」

ライドウは首を振り、鳴海の危惧したものを否定した。小言をもらうのが嫌ならば怠慢や浪費癖を直せばいいものを、と鳴海の態度に内心で溜め息をつきながら要件を告げる。


「以前定吉から所長の体術は神業だった、との言葉を聞いてから思っていたのですが、一度自分と手合わせしてもらえないでしょうか」
「……は?」
「駄目ですか」
「いや、駄目っていうか……」


気の抜けたような顔をする鳴海に、ライドウは言葉を重ねる。
軍の精鋭がどういう技量かはわからないが、それでも数人で仕掛けても鳴海は大した傷を負うことなく、彼の言葉が本当なら相手に手加減までする余裕があったらしい。定吉が鳴海を持ち上げようと嘘をついているとは思えない。神業、その言葉は一体どういう動きからそう呼ばせたのだろう。ライドウの興味はそれだった。
己から悪魔召喚や武器を取った姿、つまり生身だけで鳴海と手合わせしてみたい。里で一通りのものは習ったが、やはり基本は剣術と召喚だった。体術に自信がないわけではない。しかし鳴海が手練だというのなら、単純に強さを測りたい。そして本当に彼が目を瞠る技の持ち主ならば、自身の鍛錬のためにも、暇があれば相手になって欲しいと思うのだ。


「手合わせねえ……」


しかし鳴海の方はあまり乗り気ではなさそうだった。後頭部を掻きながら眉を顰める言葉は、自信がないからではなく、面倒だという風に取れた。
それでも鳴海の能力に興味があるライドウは引かずに鳴海を見つめる。


「そんなのやるまでもなくお前の方が強いと思うんだけど」
「そうとは限りません。悪魔を使うならまだしも、体術のみでは自分とて普通の人に過ぎませんから。鍛錬をつんでも人の能力を著しく超えるということはありません」
「ったってなあ、現役のお前と引退して久しい俺じゃあねえ」
「その”引退して久しい”あなたは、現役の軍の精鋭数人のプライドを壊すとまで言わせたんですよ」
「ああもうはいはい! わかった! わかったから!」


ライドウも引かないことを感じ取ると、鳴海は両手を突き出してライドウの勢いを止めた。
しかし了承の意を告げたにも関わらずやはりその表情は重いもので、動く気配もなく煙草に手をかけている。


「所長」
「わかってるって。でもなあ……」


煙を吐き出しながら背もたれに深々と体を預ける姿は、やはり乗り気ではないようだった。歯切れの悪い態度に焦れたライドウが仲魔に発火でもさせるかと本気で思った時、いい事を思いついたとばかりに鳴海が顔を輝かせた。


「そうだライドウ、手合わせじゃなくて腕相撲はどうだ?」
「は、腕相撲……ですか」
「そう。これだって立派な、そして文字通り手合わせだろ」


確かに腕相撲とて瞬発力と腕力を必要とするので、一概に不必要とは言えない。だがライドウの思い浮かべていた手合わせからはかけ離れており、どう答えを返せばいいものか返事に詰まる。しかしおそらくここで首を横に振れば鳴海は逃げてしまうような気がした。それならば、ここで手を打っておくのも一つの手かもしれない。


「ではそれで構いません。ですが、こちらが勝利した場合、自分が言っている意味の手合わせをしてもらいますよ」
「げっ、さり気に賭けるなんてお前も強かになったなあ」
「おかげさまで」


この事務所にいれば誰だって自然とそうなってしまう。それを言外に匂わせると、鳴海の目が猫の目のように細まった。


「じゃあ受けるばかりじゃ不利だから、こっちもそれなりのこと要求させてもらうぞ」
「構いませんよ」


笑いを含む互いの口調に、賭けは開始となった。





■■■





初めて握った鳴海の手は大きかった。しかしそれ以外に特にどうという感慨を持たずに中央テーブルを挟んで二人で座り、自分の思う場所に肘を落ち着けて神経を掌に集中させる。組んだ腕の中央にはおもしろそうに事態を見守るゴウトがおり、合図は彼の鳴き声となっていた。
鳴海は普段通り緩い表情をしていた。時折情けないように眉根が寄ったりしているが、真剣さは見られない。このままはぐらかされてしまう前に、先手を打っておく。


「手を抜くようでしたら手合わせに真剣を持ち出しますよ」
「とんでもない。俺の願望が賭けられるんだからそんなもったいないことしないさ」


そう意味あり気に微笑まれ、鳴海の賭けの対象を聞いていないことに気がついた。
尻の重い彼を動かす動力になったその願いとは何なのだろう。


「ライドウの純潔、ってのは冗談だから睨むなよゴウト。でもま、口付けぐらいは強請ってもいいでしょ」
「所長、あなた何を言って」
「よーしゴウト、いっちょ合図よろしく頼むな」


耳を疑うような事を聞いたライドウは思わず組んだ腕を解こうとしてしまったのだが、鳴海は固く手を握ってそれを許さない。縋るようにゴウトを見たが、彼は笑うように口元を上げ、無情にも勝負の合図を告げた。


「っ!」


にゃあ、と間延びした鳴き声が落ちた瞬間に手に圧力が掛かり、歯を食いしばってそれに耐える。冗談ではない。ただの力比べかと思っていたが、これでは負けることが出来なくなってしまったではないか。ただ鳴海の腕を見たかっただけだというのに、事態は大きく傾いてしまっている。


「っ、やっぱけっこうやるなあお前」
「当たり前、です」
「俺、もう、腕つりそう」


そう言って笑う鳴海だが、腕の力は相当なものだった。隠密行動に腕力はそう必要なのだろうかと考えたが、密偵の仕事を詳しく知らないライドウにはわからなかった。
腕はしばらくもとの状態から動かなかった。時折傾きはするのだが、すぐに互いに持ち直す。腕の支点となっている肘が机に減り込んでしまうのではないかと思うほどに力がそこにかかっていた。
少しの間続いた抗争は、しかしライドウに分があるようだった。
少しずつではあるが、腕が傾いている。このままある程度腕が傾けば、あとは目一杯押し込むだけで勝てるだろう。鳴海の言い分を聞かなくて済む。


「あ、俺、負けそう……?」


情けないような声を鳴海が零したが、腕に力を込めるライドウはそれに返事をする余裕もなく、勝ちを確かなものにするために更に畳み掛ける。


「約束、守って下さいよ」
「っておいこら、まだ勝負は付いてないぞ」


しかし誰が見てもライドウの勝ちは見えていた。このままもうすこしすれば、鳴海の手の甲は冷えたテーブルに当たるだろう。
あと少し。そうすれば鳴海の馬鹿げた賭けも無効であるし、もともとのこちらの願望も叶う。なにより単純に鳴海に勝てることが嬉しい。ライドウは口元で微かに笑った。
崩壊は一瞬だった。


「ライドウ」
「なんですか」


やけに真剣な声音で呼び止められ、力は抜かないものの目線を上げれば、声同様いつになく真面目にこちらを見つめている目とぶつかった。


「愛してる」


言葉と同時に鳴海の唇がライドウの甲に触れれば、ダン、とライドウの予想していた通りに手の甲がテーブルに落ちていた。
完膚なきまでに押しつけられている腕はただし鳴海の手ではなく、自分のものだ。


「俺の勝ち、だな」


解いた腕を擦りながら口角を上げる鳴海に、遅れてライドウの怒りが沸き起こる。


「勝ちって、こんなの」
「馬鹿だなライドウ。勝ちは勝ち。どんな卑劣な手段だって勝てばそれが全てだ。毒を盛ったわけでもなし、心理戦なんて可愛いもんだろ」


それはそうかもしれないが、消化できない思いが胸のうちに燻る。彼の言うように勝つための作戦を微かでも真に受け、そして心乱した自分が情けない。鳴海のああいった言葉など、いつものことであるというのに傷が膿んで熱をもったような感覚に陥る。


「さあて、賭けの景品を頂きましょうか、ライドウくん」


たった今愛は戦術だと言ったその口で口付けをねだる鳴海の心がわからなかった。
彼がどこまで本気で、どこまでが自分をからかうための行動なのかの判断がつけられない。避けようにも勝負に負けたことは事実であり、それを反故にするのは気が退ける。しかし鳴海の要求は容易に受け入れられる類のものではない。
鳴海はいつもの笑みでこちらに腕を伸ばしてくる。その動きはゆったりとしていて振り払うことなど幼児でも易いものだったが、身を縛されたように払うことができなかった。顔は笑んでいるのに目に力がある。そんな双眸に縛られる。

やがて行き着いた腕にテーブル越しに引かれ、近づいてくる顔を避けることも出来ずにライドウは立ち尽くすしかなかった。









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