「只今戻りました」 「おー、お帰りライドウー」 その日ライドウが学校から帰宅すると、鳴海が自分の机の上でマッチ棒を積み上げていた。こちらを向かないで返事だけ寄越す鳴海を見てまたか、と思いながらマントを架ける。ゴウトも半目でそれを見ていた。 鳴海がこのような遊びと思える行動をしているのは珍しくはない。むしろどちらかというと日常である。仕事がないわけではない。おそらく彼の机の上には依頼された仕事内容を記した書類がいくつかあるはずだ。それにもかかわらず、彼はマッチと戯れている。 この後彼に言われる言葉を、半ばライドウは予測していた。 「あ、ライドウ。これ、新しい依頼なんだけど、ちょっと捜査してきて」 相変わらず目線は目の前の細工で、片手で書類がある方向を指差した。珈琲を淹れろという口調と全く同じもので、軽い。 「一人でですか」 「うん、そう。依頼人男でねー、”出る”って言う悪霊さんも男だって言うし」 「そうですか。わかりました」 架けたマントを再び羽織るのと同時に、ライドウは完成間近の作品に神経を尖らせている主を見やる。 「所長」 「んー?」 「毎度のことですが、たまには仕事をしても罰は当たらないと思いますよ」 最早これが鳴海という人物だとわかっているが、全く不満に思わないわけでもない。 ほんのはじめの頃はそれでも鳴海はライドウと共に捜査に赴いていた。親睦を深めるのと、単純に捜査の手順を教えるためだったが、ライドウがそれを覚えた頃には鳴海は今の鳴海だった。それでも最初は自分を信頼してくれているのだという、当たっているのか間違っているのかわからない考えでいたのだが、それが続くとなればいい加減馬鹿でも気付く。この探偵社の所長は、動かない。 主とはそういうものかもしれないが、未だこちらは見習いという立場だ。悪魔関係なら己ひとりでも差し支えはないかもしれないが、それ以外のこと――例えば依頼人に対する言葉のやり取りなど、世間知らずな己に指示は必要だった。 ライドウが憮然と言うと、そこでようやく鳴海が嬉しそうに顔を上げた。 「お、何だライドウ。一人じゃ寂しいのか?」 「馬鹿言わないで下さい。ただ単純に効率を考えただけです。捜査だけなら自分が帰ってくる前にあなたひとりでも行えた」 「だって今回悪魔関係っぽいだろ」 「今だけの話をしているのではありません」 学帽のつばの下から少々冷えた視線を鳴海に向ける。常人なら無表情の顔で詰められると畏怖を覚えるものだが、鳴海はおもしろそうに目を細めて真っ向からライドウを見据えるだけだった。その視線にむしろライドウの方が乱され、構えてしまう。 そして鳴海はいつものように理解不能なことを口にする。 「そうだなあ、ライドウがぎゅーってしてちゅーってしてくれたら頑張れるかもな」 「ふざけないで下さい」 「嫌だな、全然ふざけてなんかないよ。俺はいつだって本気本気」 そんなにやけた顔で告げられても説得力など全くない。これ以上相手にしても望む展開にはならないと判断したライドウは、ゴウトに視線を送って退出の意を伝える。 しかし鳴海は背を向けるライドウを引き留め、椅子から立ち上がってこちらに近づいてきた。 「まあまあ無視しなさんなって。考えてみろよ、これはチャンスじゃないか。ちょっと抱きついて口付けするだけでやる気ある俺が見られるんだぞ」 「……自分はあなたの玩具ではないのですが」 「玩具なんて。俺の好意は伝わってないのかね、この鈍ちんには」 額を指でつつかれ、ライドウは目だけを不機嫌そうに細めた。 「そう怒るなって。ま、格好よく仕事する俺は機会があったら見れるだろ」 「いつですか」 「窮地にいるお前を助ける時さ」 なんてものの言い方だ、とライドウが口を開けば、それを計ったかのように腕を引かれ、そして頬に落とされた感触に言おうとしていた言葉は喉の奥へ引っ込んでしまった。 ちゅ、と耳元で音がしたのは間違いだと思いたい。 「これから捜査に行くお前にご褒美の前金」 「―――」 「残りは、見事捜査し終わったらたっぷり払ってやるよ」 じゃ、いってらっしゃい、と甘い笑みを見せられ、ライドウはかすかな間動くことを忘れた。しかしすぐに相手の腕を失礼のない範囲で遠ざけ、ずれた帽子を直して挨拶を済ます。もちろん「いりません」の言葉も忘れない。 そのまま鳴海の顔を見ることなく探偵社を出、銀楼閣の入り口前まで歩いたところで誰もいないことを確認して壁に背を預ける。 表情はおそらく普段と何も変わらなかったはずだ。取り乱した姿を見られていないことにひとまず安堵するが、それでも脈が早いことを知られてはいないかと思うと、あの部屋に戻ることに抵抗を覚えてしまう。 しかも結局は鳴海を説得することは出来ずに、始終自分がからかわれっぱなしで終わってしまった。あまり感情が動かない方だと思っていたが、ここに来てからはそれが覆されてばかりだった。確かに世間を知らない己をからかうのは何かと気晴らしになるのかもしれない。しかしそれにしても度が過ぎている。 鳴海が触れた感触が残っているようで、ライドウはその箇所を手で拭うように擦った。 帝都は恐ろしいところだ、そう思いながら。 鳴海さんはいろいろ駄目大人代表。 |