常々思っていたことがある。
完全同位体である自分達だが、違うものもあるのだと。
レプリカは被験体と比べるとやはり劣化しているらしく、悔しいが能力などではアッシュよりも下らしい。そしてこれも劣化故のことなのか、赤い赤いと言われるルークの髪色も、アッシュに比べると微かに色が薄かった。
劣っている事実を突き付けられるようで当初は色々と複雑な気持ちを持て余したが、すったもんだの果て、アッシュとあまりおおっぴらには言えない関係になってからは、アッシュの髪はルークにとって気に入りのひとつになっていた。
許されるならずっと触れていたいそれだが、しかしアッシュはそれを嫌がる。
少しぐらい、と不満が募るのだが、アッシュをあまり怒らせたくないルークとしては文句もあまり言えずに、いつもお預けを喰らった犬のような気持ちでいた。
アッシュの髪は言わば餌。それが今目の前でゆらゆら揺れているのだからたまらない。
しかし脇目も振らずにじっとみつめすぎたのか、急にアッシュが背後を振り返ってきた。
咄嗟に視線をアッシュではない方向に向けて平静を装ったが、相手もしぶとくこちらを眺めてくる。


「………」
「………」


かなりの視線を感じたが、それでもルークは知らない振りをした。
何も言ってこないということは相手も確信がないということであろう。ならば眼福のためにも、己はごまかし続けるだけである。
そしてアッシュが再び体を前に向けるとまた揺れる赤に目を向け、アッシュが振り返っては逸らす、ということを幾度か繰り返す。
しかしどうしても不自然さは除けないのか、何度目かの知らない振りの後、アッシュの歩みは止まってしまった。


「……おいレプリカ、言いたいことがあるならはっきり言いやがれ」
「えっ、べ、別に言いたいことなんてなにも」
「ならさっきからの鬱陶しい粘つくような視線はなんだ」


鬱陶しい、粘つく、と言われて少しばかりルークはショックを受けたが、それよりもアッシュを見ていたことがしっかりと本人に知れていたことが気になった。


「――やっぱりバレてた?」
「あんな薄気味悪い視線、わからんほうがどうかしている」
「薄気味悪い……」


そこまで言うか、とアッシュを恨みがましく見ると、彼は気にした風でもなく鼻をならし、ルークの前に仁王立ちになる。
言え、と視線と威圧で物申されどうするか迷ったが、どの道今日はいつかはアッシュの機嫌を見計らって言うつもりだったので、逆にいい機会だとポケットからあるものを取り出した。


「じゃーん」
「……何だそれは」
「何って、コレの用途っていったらひとつだろ」
「もちろんてめえで使うんだろうな」
「いや、アッシュに」


そうにこりと笑ったルークが持ち出したのは櫛だった。
アッシュの髪に気の済むまで触れていたいというのがここ最近のルークの夢だった。
触れて指で梳き、櫛を入れたあの髪の手触りはどれほどのものだろうと、黒い衣服に映える赤糸の束を見ては思っていたのだ。願望が叶うかもわからないのに、わざわざいい櫛を新調して持っていたほどである。
アッシュの反応が悪いのは想像通りなのであまり気にしない。どうせこの後に出るのは馬鹿か屑か無言のどれかだろう。しかし雷が避けられるならそれに越したことはないので、ルークはアッシュが口を開く前にやや強張っている肩を押さえつけた。


「ほら、座った座った」


引こうとする体を無理矢理木陰に座らせると、諦めてくれたのかアッシュは意外にも身動きをしなかった。
それを嬉しく思いながら早速手の平に一束掬い上げ、手にしていた櫛を入れる。
引っ掛かっても痛むことのないようにとゆっくりと、そして丁寧に降ろしていけばすんなりと毛先まで櫛の歯は下りた。何度も繰り返して全体を梳かせば、その感覚に感嘆の息が零れる。


「うわ、やっぱりアッシュの髪、すごいさらさら」


日に透ける赤。癖一つないまっすぐなそれ。
髪全体を手の平に取り、指を斜めにして髪を端から滑らせていくと、本当にさらさらと音がするようで、胸がとくりと高鳴った。

きれいだ。

木漏れ日の微かな光りを反射する赤い髪は、ルークが今まで見て来たどの光景よりも胸に響いた。


「アッシュさ、絶対髪切るなよ」
「……理由を聞いてやる」
「ん。だってこんな綺麗な髪してるんだから勿体ないだろ」
「馬鹿馬鹿しい。大体お前も俺のレプリカなら大して変わらないだろうが」
「いや結構違うよ。俺は伸ばしてても、こんなにはならなかった」


今はない切り落とした髪を思い浮かべ、やはりアッシュのような髪ではなかったと頷く。
特に癖があったわけではなかったが、髪はいつも空気を孕んだかのように広がり、アッシュと同じ髪の量でも自分の方が多く見えた。


「それにやっぱり、色の深さが違うし」


こんな赤、と一房持ち上げ溜息をつく。
欲目がなくとも美しい色、それに触れられている現状が誇らしくて仕方がなかった。人と一線を置こうとするアッシュがこれまでどう過ごして来たのかはわからないが、きっとこうして彼の髪に触れることが出来た人間はそういないに違いない。
と、そこでルークの慈しむような表情が固まった。


(そういない……?)


ということは、少しはいるということである。
どういう状況下で、と考え、すぐにそれは出てきた。
他はどうかわからないが、ルークがアッシュの髪に触れる時はその主たる時が抱擁しているときである。互いに腕を回し、その背に手を伸ばしたり、頭を掻き抱いたりと、決まって親密な行為をしている時だ。
自分と同じ様に、過去、いやもしかすると今もアッシュの髪に触れている者がいるかもしれない。
そう思うとものすごく悔しくて、とても自己中心的だが手の中の宝物を傷つけられたように感じた。先程までの幸福感など一瞬にして消えてしまっている。
できれば自分だけが特別だと思いたかったルークは、むう、と口をヘの字に曲げ、背後からアッシュにしがみつく。
即、肘鉄が脇腹に当てられたが、めげないで余計にしがみついてやった。


「特別が欲しい」
「耐えてやれば少しは大人しくなるかと思えば……お前の行動はわけがわからん。何がしたいんだ」
「さっきまではただアッシュの髪を梳きたかっただけだけど、今は俺だけが出来ることがしたい」
「俺の髪を梳かしてる時点で十分そうだろうが」
「……でも、手櫛は俺だけじゃない」


そうだろ? と意味ありげに問い掛けると返ってきたのは無言だったが、空気がそうだと言っていた。
ちくしょうこの野郎と思いつつ、アッシュに回している腕に力を込める。


「だから、アッシュが誰にもあげたことのない特別が欲しい」
「………」
「―――て、ごめん。図々しいな。ああもうなんかちょっと女々しすぎるよな俺」


でも。
首元で呟くと、前に回していた手がぐいと引っ張られた。
片手だけだったのでぐらりと体が傾き、アッシュの横に倒れこんでしまう。鬱陶しくて引き剥がすにも、もう少しやり方があるだろうと文句を言おうとすれば、アッシュはこちらに手を差し出していた。
もしや起こしてくれるのだろうか、と怒りを驚きに変えてその手に自分の手を重ねれば「違う」と掌を返され、乗せた手が落とされる。
それに何気にショックを受けていると、アッシュは櫛だ、ともう片方の手に握られているものを指してきた。


「え、櫛って、これ?」
「それ以外どこに櫛がある。いいから寄越せ」


言われるままに櫛を渡すと、今度は座れ、とアッシュは顎を引いて自身に寄る事を命令した。
その行動が意味することが信じられなかったが「早くしろ」と促され、壊れた機械のようにぎこちない動きでアッシュに背を向けて座り込む。
思わず正座してしまえば「馬鹿か」と頭をはたかれ、膝を抱える体勢に変えたが落ち着くことなど出来やしない。
そしてまさかまさか、と緊張が高まった後、想像していた通りの感覚が髪に伝わり、ルークの顔が見るからに赤くなった。


「何をそんなに体を強張らせているんだお前は」
「えっ、だってお前!!」
「特別が欲しいと言い出したのはお前だろうが」
「いや、でもだからってこんな……!」


貴重と言ってもいいほどの褒美をもらえるとは思いもしなかった。
まさかアッシュが髪を梳いてくれるなど、夢にも思わない。何かの間違いだと思うが頭にある感触は紛れもなく髪に櫛を入れているものであり、背のすぐ後ろにいるのも間違いなくアッシュである。
うわあうわあ、と心の中でもそれしか言えず、膝の上で手を握りこむしかない。


(すっごい俺。俺すっごい。アッシュに櫛入れてもらってるよあのアッシュに。あのアッシュが俺の髪を! 櫛で!)


やはり夢だろうかと思ったが、右の踵で左の足の甲を踏めばものすごく痛かった。
ならばこれは夢ではなく現実だということになるが、あまりに自分に都合がよすぎてにわかに信じられない。
髪をひと房持ち上げられて櫛を下ろされる度にびくりと肩を揺らしてしまい、その度に馬鹿かと言わんばかりにアッシュに髪を引っ張られたが、体が勝手に反応するのでどうしようもない。
しかし次第にその感触に慣れてくると、それが至福ともいえる心地よさだということにようやく気付くことができた。
意外にも細かくゆったりと動く手に、ぴんと伸びていた背筋も余分な力が抜けて弛緩してくる。改めて感じる今の状況が嬉しくて、今は後ろにいるアッシュを抱きしめるようにぎゅう、と膝を抱え込んだ。
特別だというからには、アッシュはきっと誰にもしたことがないのだろう。
彼にこんなことをしてもらえるのは自分だけなのだと思うとにやけた顔は止まらなくなり、アッシュが後ろでよかったなと思った。きっと今自分は過去最高にしまりのない顔をしているに違いない。


「なあアッシュ。俺も、ひとの髪梳いたのってアッシュが初めてなんだ」
「だからなんだ」
「いーや、なんでもない」


耳のすぐそばで聞こえるアッシュの声が心地よい。
出来ればこのままずっと髪を梳いてもらいたくて、突風でも吹かないかとさえ思えてくる。わざと首を振って髪を乱してもいいが、拳骨にこの空気を潰されるのは勿体無いと暇なことを考える。


(あーあ。髪も長かったらなー……)


切り落とした髪に未練などないが、今このときだけ伸びないかと都合のいいことを思う。
アッシュと違って鑑賞に値するものではないが、櫛を入れる時間は長いほうがいい。
何かもっとアッシュがこうしてくれる時間を長引かせる案はないものかと悩んでいたところ、今までほぼ無言だったアッシュがぽつりと言葉を落とした。


「お前はもう髪は伸ばさないのか」
「俺? いや、なんか考えたことがなかったけど……なんで?」
「……俺は、お前の髪が嫌いじゃない」
「え、それ、つまりはどういう意味で!?」


もしかして自分の髪なんかでもアッシュは少しは気に入ってくれているのだろうか。劣化しているのこの髪を。
しかし問うてもアッシュはうるさいと言うだけで、ルークの欲しい答えはくれなかった。


「意味も何もそのままだろ」
「もっと直接がいい!」
「知るか」
「自分から言っておいてそれかよ!」
「騒ぐと止めるぞ」


言葉の意味が知りたかったが、こう言われてしまえば黙るしかなかった。
何だよ、と拗ねてみるが、それも再び髪を梳かれれば一瞬でほだされそうになってしまう。


「……そんなこと言われたら髪伸ばしたくなるだろ」
「勝手にしろ」


そっけない返事にふくれて顎を反らすルークには、アッシュがそこで笑ったのも、髪を持ち上げて唇を落としたことにも気付かなかった。
それでもこの上ない幸せをかみ締め、目を閉じながら髪を梳くアッシュの手つきに酔う。
二人を囲む空気はどこまでもやわらかだった。













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