「待てってアッシュ! だってそのままじゃお前……!」 「くどい! 構うなと言ってるだろう!」 「アッシュ!」 敵方の動きを報告しに来たアッシュは、見事にずぶ濡れだった。 運悪く通り雨に遭遇してしまったらしく、雨よけの道具も場所も見当たらないままルークたちのいるホテルへやってきたのだが、その見事なまでの濡れ姿にルークはじめ、皆が驚いた。報告よりもまずはその身なりを、とシャワーを勧めるのだが、アッシュは頑なにそれを拒み続ける。 風邪を心配するルークと、そんな柔な体の鍛え方をしていないと言い張るアッシュとの言い合いがホテルの入り口で続いたのだが、アッシュの意思を曲げることは出来ずにとうとう背中を向けられてしまった。行ってしまう、とその背中を引き止める術もなく奥歯を噛みしめた時、ルークの背後から声が飛んだ。 「いけませんわアッシュ!」 振り向くと、強い目でナタリアがアッシュを見つめていた。 振り返らずとも歩みを止めたアッシュにそのまま近づくと、気丈な顔は途端に不安げな表情になった。 「いくら体を鍛えていようとも程度があります。そんな姿で外へ出るのは賢い選択とは思えません」 それに、と微かに震える手でアッシュの腕に触れる。 「馴れ合えないというのならそれでも構いません、しかしあなたは少しの心配もさせてくれないのですか? ……普段あなたは大きく私たちの力になってくれているのに、私たちはあなたに返せるものは何もありません。せめてこういう時ぐらい……こういう時ぐらい、私たちを頼って下さっても」 「………」 「アッシュ……」 ひしと見つめるナタリアはとてもいじらしくて、彼女に特別な感情を抱いていないルークとて庇護欲をそそられた。 自分がそうなのだからアッシュはより一層とそう感じているのだろうと苦い気持ちで彼を見る。 そしてしばらくの沈黙の後に続いた言葉は了承だった。 「―――今回だけだぞ」 「アッシュ!」 渋々といった風だったが、それでも願いを受け入れたアッシュにナタリアの顔いっぱいに笑顔が広がった。普段は姿を見せてもすぐに離れていってしまうアッシュが、一風呂だけとはいえ、それでもしばらくは自分たちのもとに留まるのだ。アッシュを想うナタリアにはさぞかし喜ばしい状況に違いない。 ルークとて今のこの状況が嬉しくないわけがない。自分もナタリアと同じように喜びたかった。だが、嬉しいはずなのにどうしてか心は沈んでいた。ナタリアの笑顔とアッシュを見ていられなくて、顔をそむける。 ナタリアに引かれるままアッシュが宿屋の一室に行ってしまうと、もやもやした気持ちだけが残った。 「……あーあ。やっぱ敵わないよなー」 「誰にですの?」 「誰って、ナタリアに決まってんだろ」 数十分後。部屋に戻る気分になれずにずっとロビーにいたルークは、目の前の光景をたっぷりと眺めてため息と共に呟いた。 シャワーを済まし、服も乾いたアッシュは結局押し切られるままに一泊が決定し、早速ナタリアに連れられて二人でテラスで語らっていた。二人の間には入り込めない何かがあって、アッシュが風呂から上がったら掛けようと準備していた言葉は引っ込んでしまった。嬉しそうなナタリアと、心なしか穏やかなアッシュを眺めていると邪魔をしてはいけないような気がして、それでもアッシュを視界に置きたかったルークは遠目から二人を眺めていた。 「”自分で考えろ”って……わかんねぇよ馬鹿アッシュ」 本当にアッシュは自分をどう思っているのだろう。以前のやさしいキスに少しは、と何度目かわからない期待が湧き出ようとするのだが、先ほどの引止めの言葉も鬱陶しそうに突っぱねられ、留まる事が決まってもこのように放置である。また思考とテンションは振り出しだ。 所詮お前はただの気まぐれの材料にしかならないレプリカ風情で、大事なのはナタリアだ、とやはり彼はそう伝えたいのだろうか。 「だったら落ち込むなぁ……」 「元気出してくださいですのご主人様〜!」 みゅ〜、と不安げに、それでもどうにか自分を励まそうとするのかミュウが目の前をうろうろするのだが、脱力感が大きくて避ける気力も起きなかった。 おそらくアッシュとナタリアが一緒にいる以上この気持ちは晴れないだろう。きっとアッシュがこちらを向いてくれない限りこのもやもやは解消できないのだ。自分を、自分だけを相手にしてくれなければ。 「ばーか。馬鹿、馬鹿アッシュ」 ちらりと見たアッシュとナタリアの表情はやはり穏やかで、思いたくもないのにお似合いだとか思ってしまい顔を俯けていく。 自分がどれだけ言っても聞かなかったアッシュを、引き止めることの出来たナタリア。 アッシュの一番が誰かはわかっていたつもりだったのだが、こうも直接的なものを見せられると落ち込まずにはいられない。 キスしていようがなんだろうが、結局は心を掴んでいないと意味がないのだと思い知らされる。今までの浮かれていた時間を返せるものなら返してほしい。 「……いや、やっぱ返してほしくないか」 あちら側がどういう意図であれ、そうされて嬉しかったのは事実だ。今こんな状況になっていても、多少憎いとは思うがそれでも唇を合わせたという事実は決して嫌な記憶ではない。 なんという女々しさだと盛大に息を吐き、自棄混じりで再びテラスの二人に目をやる。 相変わらずこちらに背を向けながら穏やかに談笑し、時には笑いの空気まで伝わせてくる。主にそれを醸しているのはナタリアだろうが、アッシュだって微小のひとつはしているはずだ。 俺の時にはいつも怒ってるのに、と口を尖らせ、だるそうに足の上で肘をつく。開いた足の間にミュウが入り込んできて少々邪魔だったが、今はアッシュとナタリアだ。 「……気障な奴」 人とぶつかってよろめいたナタリアを難なく支え、そして頬を染めるナタリアを見てぶすくれた気分になる。例えばナタリアが自分だったらアッシュは手を貸さないだろう。それどころか倒れてくる体を避けているに違いない。後に続くのはもちろん蔑みだろう。 やさしくされないのはわかっているが、別の人にはそれを見せるのはおもしろくない。これが忌むべき存在である己に対する、アッシュの精神攻撃だとしたら実に効果は絶大だった。ここ最近の出来事に、自分はおもしろいように翻弄されている。 ただ一方的でよかった想いを、更に上の望みが湧くような接し方をして。 案の定他を見ててもいいなんて思えなくなり、その視線にが留まるのは自分だけじゃないと嫌だとまで思うようになった。 引き返せないところまで落としておいて、でも、相手の気持ちは一向に謎のままで。そして気分の上昇と下降を繰り返していたところでこの現実だ。己とまるで接し方の違うアッシュを見て考え付くものは悲観的なものでしかない。 そこまでして俺に当て付けたいか、と思うと無性に悔しくなり、ルークは眼下でゆらゆらと揺れていた青色をがしりと掴んだ。 「いけ、ミュウ!」 みゅっ!? と鳴くのが聞こえるか聞こえない間に、ルークはミュウをテラスの赤色めがけて投げ込んだ。 そして結果を見ることなくその場から逃げ出し、ホテルの外へ出る。ぐるりと周辺を回ってなるべく薄暗い建物の影に腰を下ろした。 今ごろあちらはどうなっているだろう。ミュウを投げてすぐに背を向けたのでよくはわからないが、遠くでナタリアがアッシュの名前を驚いたように叫んだのは聞いたのでおそらくルークの期待通りになったのであろう。ミュウの頭突きは岩をも砕くほどだ。あのすかした顔は多少なりとも歪んだだろうか。 しかしそうして多少なりともすっきりしたのはいいが、これからどうすればいいのだろうかと思うと少しばかり憂鬱になる。この後ホテルに戻った自分には何が待ち構えているのだろう。まず、般若のナタリアは必至に違いない。アッシュは、と考えたところで不機嫌な声がかった。 「てめぇ、これは何の真似だ」 「げ、アッシュ!」 顔を向けると片手にミュウをぶら下げたアッシュが立っており、予想外の展開にルークはたじろいだ。ホテルに戻れば盛大に嫌味を向けられるだろうと思っていたが、追いかけてくるとまでは思っていなかった。 それほどまでに怒っているのだろうかと怖気づきながら顔色を窺うと、案の定やはり機嫌は悪そうだった。 しかしまさかナタリアと話しているのがおもしろくなくて、など言えるはずもなく、ルークの視線はさ迷う。 「あー、その……て、手が滑って」 「ああ?」 「いや嘘ですすいません」 「――言わんと、こいつは返さんぞ」 「ご主人様っ、ご主人様〜っ」 アッシュに掲げられ、しきりにこちらに来たそうにもがいているミュウを見てルークの顔が引き攣った。 可哀想なはずで、そうなっているのも自分が投げ込んだせいであり助けてやらねばと思うはずなのだが、鬱陶しさが先立ってしまうのはなぜだろう。しかし口では言えないが、今やミュウもルークにとっては大事な仲間で、ある意味では一番近い存在である。 アッシュにしてはらしくない子供じみた取引だったが、彼は言ったからにはおそらく目的を達成するまでミュウを返してくれないだろう。 逃げ道はないのだと悟ると、ルークは俯きながら、情けない気持ちで素直に理由を語った。 「……だって。お前ここ来てからずっとナタリアと一緒で……」 「構ってもらえないからといって、こんな子供じみた真似をするのかお前は」 「っ、そりゃ確かに考えなしだったけど、でもアッシュだって悪いんだからな!」 あの葛藤を一言で切り捨てられ、少しカッと来たルークは座ったままでアッシュを睨み上げた。 「しょうがないだろ! じ、自分で考えろとか言ってあんな思わせぶりなキスくれたのに、今日なんかずっとナタリアと一緒で、態度だって俺と全然違うし! もしかしたらそんなに嫌われてないのかもってちょっと浮かれてたけど、あんなの見たらやっぱり俺なんかどうでもいいんだって思うだろ!」 俺が引き止めても全然聞いてくれなかったくせに、とわだかまっていたものを吐き出してもアッシュは涼しい顔をしていて、それがまた癪に障った。 「ナタリアはお前の婚約者で、俺はお前の大大大嫌いなレプリカで……だからこそ立場をわきまえない嫉妬でぐちゃぐちゃだけど、劣化上等だよばーか!」 今が夜でよかったと思うほど、顔に熱が集まっていてさぞかし見難い顔をしていることだろう。しかし格好悪いがなんだ、そんなものは最初から装備していない。 「これ以上嫉妬にかられると俺絶対狂うんだからな……」 こんな言葉、相手には脅迫にも何にもならず、むしろ得なのだろうが気がついたら言っていた。こんなになってしまってどうすればいいんだ、と恨んだ視線を向けると、アッシュが静かに口を開いた。 「……てめぇは一体何がしたいんだ」 「何って……」 「俺に何を求めている」 「っ、そんなの!」 言いたいことはあるが、それを口に出そうとすると胸が詰まって言葉にはならなかった。普段なら言えたであろうそれも、ナタリアとの光景を見た後では絶対に言いたくなかった。 出来ないと首を振るがアッシュは許してくれない。 「いいから言え」 「い、嫌だ」 「てめぇ、自分にそんな権利あるとでも思ってんのか」 「だって!」 「うるせぇ! 言え!」 「無茶言うな!」 「―――この野郎!」 強情に首を振っていると、とうとう切れたのかアッシュが苛ついたように吐き捨てる。 「てめぇどこまで鈍感だ! 屑にでもわかるように譲歩してやったのに、いつまでたっても気付きやしねぇで挙句まだナタリアがどうのこうのとほざきやがる!」 「あ、アッシュ……?」 「こうなりゃ最終手段だと、こっ恥ずかしいのを我慢して望んだことを叶えてやろうとすれば黙秘。ふざけんなよてめぇこの屑!」 「なんだよなに怒って……ってええ!?」 いきなり怒鳴られ、何が何だかわからないルークだったが、遅れてアッシュの言葉の意味が頭に入ってくると大きく目を見開いた。 「アッシュ、もしかして……その、ちょっとは俺と同じ気持ち、とか……?」 ありえないという思いから語尾が窄んでしまった小さな言葉に、アッシュはかなりの渋面になったが、眉間に皺を刻みながらも否定しなかった。絶対に嘲笑と罵倒されて突き放されるとばかり思っていたルークは、アッシュが言わんとしている事がとても信じられずに首を振る。 「う、嘘だ!」 「こんなクソ恥ずかしい嘘吐いてどうする!」 「だって、お前口では散々鬱陶しいだの憎いだの言ってたじゃねぇか! そんなのでわかれとか無理だし!」 「口合わせて舌突っ込んだ時点で気づくだろうが普通!」 「いやいやいやいや無理だって! 持ち上げておいて一気に叩き落す嫌がらせの手段かもって思うだろ!」 「……貴様俺を何だと思って……。―――ああクソ、うぜぇっ! じゃあどうすれば信じるんだよてめぇは!」 「どうすればって……」 どうにも信じられないが、もしアッシュの言うことが本当ならば、と顔を赤くしたまま俯き、胸元で手を弄びながら決死の願いを出してみる。 「あ、アッシュに……抱き着き、たい」 言葉の恥ずかしさと叶わないだろうという思いから語尾は弱まった。見ればアッシュは固まっている。そんな姿を見て何てことを口走ったんだと羞恥でルークは駆け出したくなったが、アッシュは手で顔半分を覆って唸った後、自棄のようにその手をルークに差し向けた。 「……来い」 「!」 まさか本当に、と驚くが、アッシュの様子から見てもからかっているとは思えなかった。表情は不機嫌そのものだが、ルークの見間違いでなければ目元が赤い。 恐る恐る近づき、それでもアッシュが離れないことになけなしの勇気を振り絞って彼に手を伸ばす。 しがみついた自分をアッシュは突き飛ばすこともなく、微かな躊躇いの後同じように抱きしめ返してきた。 「次は何だ」 記憶に有る限り初めての抱擁に、アッシュの肩口にあるルークの表情と声が歪む。 「……もっときつく」 「……苦しむぞ」 「いいから!」 そしてルークの言葉通り、腕の締め付けが強くなり、アッシュとさらに密着する。彼の言うとおり少し息苦しかったが、今はそれが嬉しい。望んだことをアッシュが聞いてくれる。こんなに近くにいてくれる。 決定的な言葉はない。しかしどうすれば信じるのかと彼は言い、願望を告げればそれを実行された。まだ半信半疑なところが強いが、回される腕の感触と、密着しているところから伝わる彼の心音にほだされていく。 夢心地で抱擁の感触に浸っていたルークだったが、しばらくの後、アッシュの呆れたような声に少しだけ顔を上げた。 「……おい屑」 「何」 「いい加減てめぇの肩にいるそいつをどうにかしろ。邪魔だ」 「肩って……あ」 そういえば、と己の肩に目を向けると、いつの間に上ったのか、そこには目をきらきらさせてこちらを見ているミュウがいた。 普段の時ならばどこにいようとさして問題でもないが、今、アッシュとのこの状態を見られるのは大いに困った。例えチーグルの仔供であっても第三者がいるのはとにかく恥ずかしい。 しかしどこかへ行けと言っても行くところがない。本当ならホテルに戻らせたいがミュウだけでは中に入ることは出来ないだろうし、第一ミュウ一人だけ戻して他の仲間に何かを喋らないかが心配だった。 「ご主人様、よかったですの! アッシュさんと仲良しですの!」 「うああああああ!」 おそらく純粋にルークとアッシュの仲を見て喜んでいるであろうミュウの言葉は身悶えるものだった。 咄嗟にアッシュから手を離してミュウを掴み、その口に手を当てて更なる被害を押さえる。もごもごと口が動いて不満そうであったが、離す訳にはいかなかった。 口を塞いでもやたらと嬉しそうな表情に羞恥は消えることなく、ルークは赤くなりながらしきりにこの光景を口外すれば丸焼きだの、二度と口聞かないだのと言いながらミュウを揺さぶる。 そうやってミュウに気を取られているルークだったが、ふとその耳に舌打ちが聞こえた。 「アッシュ……?」 「空気を読め馬鹿」 「え、ちょっと待――!」 ミュウを抱えながらうろたえるルークに寄り、アッシュは強引にルークの肩を掴んだ。顔の距離がある一定を超えた瞬間に何が起きるか体が覚えていたルークは、咄嗟に手の中にいるミュウの目を手で覆う。 「ご、ご主人様っ、前が見えないですの!」 (うるさい今こっちはそれどころじゃ……!) やっと口が開放されたミュウが文句を言っているのはわかったが、アッシュに唇を重ねられてる今、先ほど以上にその手を離すことは無理だった。この状況を見られることだけは絶対に避けたい。 はじめはミュウにばかり気を取られていたが、アッシュの施しに次第にそちらへ意識が向いていく。またあのやさしいキスをされているのに気がつくとそれしか考えられなくなる。 前回は戸惑いを残した行為だったが、今は嬉しさばかりが先立った。気のせいでなければアッシュの機嫌もいい。こうすることで浮くような気分になるのは自分だけじゃないのだと目に見えると、なんともいえない気持ちになる。 それでも幾度と浮き沈みを起こした心は不安を呼び起こし、合間にもう一度信じてもいいかと尋ねると、アッシュは目を細め、軽く笑ってルークを抱く腕に力を込めた。 ものすごいものを見た気がしたが、再び合わさる唇に思考がそれていく。 体の間にミュウを挟みながら、二人は長い間そうしていた。 |