酒場のドアを開け、すぐに見知った顔の友人を見つけて青年は軽く手を上げた。 「よお」 「おう、久し振り」 馴染みの席に腰掛けている友人に挨拶をしながら、その向かいにかける。 すぐに注文を取りに来た店員に幾品かを次げ、煙草を取り出す。 「で、なんだよ話って」 何かを期待している目をしている友人に苦笑しながら、大きく煙を吐いて告げてやる。 「俺、ちょっと前にいい子がいるって言ってただろ」 「あーはいはい、最近来た旅の一団さんね。しかも男の子の。お前そっち系だったもんな。別に性癖に口出すつもりはないけど、いたいけな少年には手えつけんなよなー」 「フラれた」 「は?」 「だからフラれたっての、そのいたいけなしょーねんに」 臆なく告げれば目の前の友人の目は丸くなった。 「……お前の手の早さには別段驚きもしないけど、その展開はちょっと意外だな」 「褒めてんのか蔑んでんのかよくわからない感想どうも」 まあいいから聞けよ。 そして煙草の煙を吐き出し、彼は最近あった出来事を語り出した。 ■■■ 赤い髪の少年に思い切りぶつかられたのは三日前のことだった。 街の路地の曲がり角で、出合い頭の衝突。少年は急いでいたようで、かなりの衝撃をくらいこちらはバランスを崩して尻餅をついてしまった。 その体制に羞恥を感じ、つい怒鳴り散らそうとした口は、相手の見事なまでの髪色に開け放しになる。この大陸で二十数年生きてきたが、こんな鮮やかな色は見たことがなかった。 呆けるのに気付かず、相手の少年は血相を変えてこちらに駆け寄って来る。 『うわあああああ! ご、ごめん! いやごめんなさい! 俺、急いでて……っ』 『……え? あ、いや、俺も不注意だったし』 そのあまりにも必死に謝ってくる姿に気圧され、怒りよりも戸惑いが勝った。 それによく考えればこちらに全くの非がないわけでもない。申し訳なさそうに謝り続ける少年を見ていると強く出ることができず、逆にこちらが罪悪感を感じてしまう始末である。そんなつもりはなかったが、気がついたら相手の散乱した荷物を回収するのを手伝っていた。 何を人のいいことをしているんだ、と自分に突っ込みつつ、軽い挨拶をして去ろうとしたのだが「待って」と引き止められてしまう。 視線を向けると、少年は散乱を免れた荷物の中から林檎をひとつ取り出してこちらに差し出していた。 『あの、これお詫びにも感謝にも程遠いけど、よかったら……』 眉をハの字にして犬のように縋る目は、その申し出を断れば更に歪むのは容易に想像がついた。 これ以上の面倒は避けたかったこともあり、素直にその林檎を受け取ることにする。本当はあまり林檎は得手ではないが、本音ばかりでは対人関係はやっていけず、子供を苛める趣味もなかった。 社交辞令でありがとうと言葉をかけて林檎を受け取ればそれで終わり。 そう思う自分に、しかし少年はしょげていた顔を柔らかくほころばせて、とても嬉しそうに笑った。 ごめんなさい、そしてありがとう、と。 その笑顔が決め手だった。 ◆ それから暫く街に滞在するらしい少年とはよく顔を合わせるようになった。 なにしろあの赤い髪はどこにいてもすぐわかる代物で、街中でうろついていればすぐに居場所は知れる。 彼らが何を目当てにこの街へ来ているのかはわからないが、何度も街を往復する姿を見掛けるたびに声をかけていた結果、会えば立ち止まって軽い話をするようになっていた。 始めは恐縮していた少年も幾度かのやり取りのあとには打ち解けてくれ、あちらから声をかけてくれるようにもなった。 自分が軽い性質なことは自負しているが、それでも人は選んでいた。 後腐れのない、お互いに割り切って付き合える相手と馴れ合ってきたつもりである。目の前の少年はどう見てもそれには適さないのだが、彼を見て覚える情欲を、体全体が解消してみたいと心を煽ってそれに負けた。あの笑顔が絶品なのだ。 彼が男を恋愛対象と見る風には見えなかったが、案外押せばいけそうにも思えた。それほど彼は無防備で、世間を知らなかった。 試しにふと肩を抱いてみたり、男同士の、それも知り合って間もない人間にやられるには抵抗があるであろう腰に手を回したりもしたが、特に嫌がりも焦りもせず腕の中にいた。 大丈夫かよ、と思いつつ、今の自分にとっては好都合なのであまり深く考えないことにした。 だが一度、調子に乗って彼の仲間の前でそれをしたのがまずかった。 一緒にいた金髪の仲間から鋭い視線を浴びて、以後はさりげなく少年を庇うような位置に出られたのだ。 失敗したな、と内心で舌打ちしつつ、今後の身の振り方を考える。 おそらく今のことで金髪の彼は少年に忠告を入れるだろう。最近知り合った自分と、何年も一緒にいた仲間とでは後者の方を信用するに違いない。本心は知れないが、それで少年自身がこちらに警戒を持ったとしたならば実にやりにくくなる。 更に、彼がこちらへ来る時には保護者も同伴するようになるという、大変おもしろくない事態になり、ここまでかと天を仰いだ。 そんな時だった。 悪友の一人にそれを話すと、彼はにやけた笑いをしながら「いいものをやろう」とひとつの錠剤をくれた。会話の流れでなんとなくこの薬の効用がわかり、青年は顔をしかめる。 合意の下でその類のものを使うのはやぶさかではないが、人を落とす手段としてこれを使うというのは、過去の経験とプライドに障った。 しかし情けないことにそれを断ることは出来なかった。特に進展もないままでの「明日経つ」という少年の言葉に、思っている以上に自分は焦っているらしい。 今日しかないと思うと手段は構っていられず、自尊心を説き伏せ、多少あった罪悪感も知らない振りをした。 そして、明日で別れるのだから、と少し無理を言って少年に約束を取り付けた。自分に呼び出されたと知れば保護者も着いてくるだろうので、できれば一人できてほしいと懇願も込めて。少年は困った表情をしたが、こちらも同じような表情で少しばかり食い下がれば、少し考えた後で頷きが返って来た。 後は待ち合わせ時間まで少年を待ち、この錠剤を飲み物にでも混ぜて飲ませればいい。手段などいくらでもある。 薬を手に持ち、上手くいった後の事を考えると気分は高揚してならなかった。 あの純粋な少年は自分の腕の下でどんな表情を見せるのだろう。思い浮かべるだけでぞくりと背筋が震えた。 そして待ち合わせ場所に少年の姿が見えると青年もそこへ向かう。 しかし急にその腕をとられ、元いた路地裏に体を引き込まれた。 『ってぇ! 何しやが――』 『黙れ下衆』 痛みにうめきながら相手を睨み上げようとして言葉が止まった。 視線を定めた先には鮮やかな赤が揺れており、その中心にある翠の相貌が鋭い眼光を放ってこちらを睨んでいた。 『はあ? お前誰だよ――痛っ!』 誰何の言葉は、壁に体を押さえつけられた衝撃で掻き消えた。 次いで左手首をきしむほど掴まれ、耐え切れない痛みに手に握っていたものが微かな音を立てて落ちる。思わず目で追うと目の前の人物はそれを踏み潰し、何をするんだと見上げれば怒気をはらんだ視線にぶつかった。 『二度とあいつに関わるな』 『ちょっと待てあいつって……おい!』 言うだけ言って背中を向ける相手を呼び止めるが、彼は振り返ることなく路地裏を出て行った。 何なんだ、と今起こったことに混乱しながらその背中を視線で追っていると、はじけるような声が耳に入る。 『アッシュ!』 それは紛れもなく待ち合わせ相手の声であり、視線をずらすとあの少年の顔が見えて青年は固まった。 彼のものであろう名を呼び、語りかける表情から目が離せない。 『うわ、凄い偶然だな。それともなんかあったのか?』 『何もねぇよ。耳元で喚くな鬱陶しい』 『だってしょーがないだろ、久しぶりなんだし……って行っちゃうのかよオイ!』 『当たり前だろう、用もないのにお前と話すのは無意味だ。お前もこんなとこうろついてないでさっさと宿屋戻れ』 『あ……でも俺、人待ってて』 『そいつなら”急な用事で行けなくなった”だとよ』 『え? それって、アッシュが俺に間違えられたってことか? うわ、やっぱ俺らってそう見えんのかな。髪とか服装とか雰囲気も違うと思うのになー』 『知るか』 『あ、待てよアッシュ!』 いつの間に急用ができたのだとか、そいつの言うことを軽く信用しすぎだとか、嘘の断りの言葉に特に残念とも思われていなさそうな俺の立場はだとか色々思う青年の視界の先で、そのまま二人は肩を並べて歩いていってしまった。 何だ、と青年は痛む手首を押さえながら壁に沿って座り込んだ。 少年の笑顔を気に入っていたのは確かだったのだが、今突然現れたもう一人の赤い髪の人物と話す彼の表情はその何倍もの価値があった。今まで見ていたのは偽物かと思えるぐらいに鮮やかで、破顔とはこういうことかと苦笑を漏らす。 こちらの思いと同じような類かはわからないが、少年が無愛想な方の赤髪に特別な思いを抱いているというのは明らかだった。一緒に同行している仲間のだれにもあのような顔は見せていない。 (ああくそ、やってらんねぇ) 今の笑顔に二度惚れし、そして失恋をも味わった。 色々予想外だったが、こうも完敗すぎると悔しさはさほど湧いてこないらしい。微かに残るわだかまりは、今の少年の笑みで帳消しだ。 落とした視線の先に砕けて土まみれになった薬の残骸を見つけると、今度は脱力の溜め息が出た。 今見た限りでは彼は少年を邪険に扱っているようだが、それが本心であれば今も自分と薬は元気なはずである。あの殺気だった目を思い出すと、ここで起こった出来事をあの少年に告げたくなった。 『って、だーれがそんな真似するかっての』 確かにそうすると少年は喜びそうだが、そうすると結果的に彼らの盛り上げ役になってしまうだけである。ここまでされてそんなことができるほど人間はできていない。加えて、去り際に少年を侍らせながらこちらに視線を寄越し、得意げに嘲笑されたことを思うとむしろ「彼らの仲など壊れちまえ」と真剣に思う。 本当にやってらんねぇ、と立ち上がったついでに白が混じった地面を蹴り上げ、青年はだるそうに手をぷらぷら振りながら家路に向かった。 ■■■ 「まあなんというか、おもしろいほどに完敗だなお前。無様だブザマ。オメデトウ」 「うるせぇよバーカ」 事のあらましを告げると、友人はにやにやと青年を眺めっぱなしだった。 無理もない。今まであまり格好悪いフラれ方をしたことがなく、そしてそれを自慢していた自分だ。さぞかし今はからかい時なのだろう。 「で、そのままそのいたいけな少年とはおさらば?」 「いや、今日発つからって最後に会った」 そのときのことを思い出し、青年は笑みを浮かべる。 訪れたのは少年からだった。保護者つきではあったが気にならず、短い間だったが楽しかった、と偽りのない笑顔で告げられるとなかなかに切なくなったものである。もうおそらくこの笑顔を見ることはできないのだと思うと、やはり寂しさを感じずにはいられなかった。 握手を求められ、社交辞令でも何でもなく本心から別れを惜しむ言葉を告げて腕を差し出した。背後にいた金髪と赤髪の視線が刺さったが恐れなどはなく、特に赤髪の方には「この野郎」という気持ちがあったので、握手をしたままの腕を引き、そのなめらかな頬に唇を落としてやった。 「やるなお前ー」 「やられっぱなしは性に合わないからな」 「その後は?」 「――しばらく夜道は気をつけとくわ」 「あはは、ばっかだねぇお前も。じゃ、無事に生き長らえてることを祝して乾杯といきますか」 「あーはいはい。完敗に乾杯っつー寒いノリね」 「そういうこと」 がちゃり、とグラスをかち合わせて互いに中のアルコールを一気に飲み干す。 またたく間に空になったグラスをテーブルに置くと、中央に置かれているフルーツの盛り合わせに目が行った。頼んだ覚えはないので店のサービスだろう。 その中に切られた林檎を見つけると自然と手が伸びていた。色鮮やかな赤い皮が彼の髪色に似ていると思いつく自分に苦笑しながらそれを口に含む。 酸味が強いと感じるのは、らしくない失恋の痛みのせいだろうか。それとも同じ髪色をしたもう一人の人物の牽制か。 やはり林檎はあまり好きになれそうにないなと、青年は微かに顔をしかめて笑った。 |