ケセドニア。 多くの人が街を行き交う中でひとり買い物をしていたルークは、そこで思いもよらない人物の姿を見つけて立ち止まった。 心はすぐに驚きから喜びに変わり、すぐに彼に駆け寄ろうとしたのだが、人の流れにそれを阻まれてしまう。だんだん離れていくアッシュの後姿に焦っても、だからといって強引に人を避けることも出来ずにルークはその場で地団太を踏んだ。 なんとか身動きが取れるようになった途端、路地裏に消えた姿を追って一散に駆け出す。 そして信じがたい光景に出くわしたのだ。 ありじごくにんがいた場所に、しかしその姿はなく、代わりに一匹の犬がいた。 犬はアッシュにまとわりついており、甘えたように体をアッシュになすりつけている。 そこでルークはまずアッシュが犬を乱暴に振り払ったりしないかということを不安に思い、一瞬どきりとしたのだが、意外にもアッシュはゆっくりとその頭に手をやったのだ。 なんだ、あいつもしかして動物好きとか? 不安に思ったことも消え失せ、目の前にある光景にルークから思わず笑みがこぼれる。 アッシュはこちらに背を向けているため表情はわからないが、それでもきっとあの無愛想面でいるのだろう。 そう思っていたルークだったが、しかし犬が少し動いてアッシュの隣に来ると、彼を撫でていたアッシュもまたその動きに沿って横を向いた。露になった表情。そして――― 何だ今の。何だ今の。何だ今の! 微かだが笑んでいるアッシュの横顔。 今まで見たことのない、そしてルークが見たいと切に願っていたその表情が今そこにあった。 慌てて建物の影に身を潜め、どきどきとうるさい心音を持て余しながらルークは今見た光景を思い返して赤くなる。 あのアッシュが笑っている。にこりとまではいかない、微かな微笑みだったが、いつもつり上がっている目元はやわらいでおり、アッシュを纏う空気自体が違った。 同じ顔なのに、とは思うが、中身が違うと醸す雰囲気も違う。 卑怯だ、とルークは熱をもった頬に触れながら思った。怒った顔しか知らない自分にあんな表情を見せて。そんな表情も出来るのだと知ったら、今度はそれを自分に向けて欲しいと思ってしまうではないか。 自分に笑いかけるアッシュを想像して、ルークの顔が更に赤くなった。そんなことをされたらきっと蒸発してしまうか、宙に浮いたきり戻ってこないだろう。 しかしそれはありえない、と現実を見直すと少しばかりルークの気も冷め、ならばせめてこの目に焼き付けておこうと、そっと壁から身を乗り出す。 バレませんように、と怖気づいての行為だったが、意に反してアッシュの姿はなかった。自分が身悶えしている時にいってしまったのだろう、路地にはあの犬しかいなかった。 なんだ、と呆気に取られながら、ルークはアッシュの恩恵を受けた奇跡の犬に近づく。アッシュが行ってしまったのは残念だが、今はどんな顔をして会えばいいのかわからないので今回ばかりはその方が都合が良かった。 こちらを向いた犬に手を伸ばして誘うと、警戒することもなく近づいてきて体を摺り寄せてくる。 飼われているのだろう、薄茶の毛並みの首には所有を表す首輪がついており、その人懐っこさに納得がいった。 頭を擦り付けてくる姿にやわらかいものが込み上げ、屈んでアッシュがしたように自分も撫でてやる。 「いいなーお前。おい、アッシュの笑顔だぞ笑顔。世界中で一番価値があるんだぜ、なあ」 つい真剣に話し掛けてしまうと、犬はわからないとでも言うように首を傾げ、その愛らしい姿にルークは思わずしがみついた。可愛くて、アッシュに構ってもらえて。なんて羨ましい存在だろう。 いいなぁお前、ともう一度呟く。 それなりに接点のある自分に一度も向けられたことがないものを、たった一瞬の出会いで受けた犬。アッシュの、自分に対する評価が犬以下なのを認めるのは少々悔しいものがあるが、残念ながら見事に完敗である。 思わずため息をつくと、犬はこちらの気分を察知したかのように甘えたような声を出して擦り寄ってくる。見ているだけで癒されるようなつぶらな瞳を見ながら、もう一度ぎゅっとしがみつく。 よし、自分も犬になろう。 そうすればアッシュだって笑いかけてくれるだろうし、頭だって撫でてくれる。そればかりか、自分が今やっているように抱きしめてくれるかもしれないのだ、とルークは少しばかり本気で犬になれないかと考えた。 存分にアッシュに甘えて擦り寄って。顔を舐めたり、寂しいときには慰めたりと、精一杯の愛情表現を繰り出すことができるのだ。アッシュのためならどんな芸だってこなしてみせよう。逆立ちだってしてみせる。 あの笑顔で受け入れてくれるのならどんなことだって。 顔を赤らめるルークの羨望いっぱいの眼差しを受けながら、犬はまるで無理だといわんばかりに一声わん、と鳴いた。 頑張れルーク。人間死ぬ気で頑張ればきっと犬にだってなれるさ! |