手始めに落とした言葉は部屋の空気を静止させた。 「なあ、……き、きすってさ。ただ触れるだけじゃないのな」 一拍後に、それまで至って普通だったガイは物凄い勢いでこちらを振り返り、一番奥のベッドに座っていたジェイドもルークを注視してくる。寝しなの部屋の穏やかな空気は一変した。 「あ、やっぱいいわ。今のは忘れてく――」 「はーいちょっと待てー。ルーク、その質問は一体どういった経緯で出されたのか詳しく教えてもらおうじゃないか」 がしりと肩を掴むガイの目にはいつもとは違う威圧感があった。即座にこれは逃げねば、と思うのだが、どうしてか体は動いてくれない。 ルーク、と間近で促されると平常心ではいられなくなってしまい、思わず急き切った言葉が出てしまう。 「いや、だからさ。ほら、聞いたんだよ。口と口くっつけるだけじゃなくて、えーと……し、舌も突っ込むってさ」 「へぇ。そんなのいつ聞いたんだ? しかも誰から?」 「……忘れた」 「ルーク」 「なっ、なんだよガイ」 「一応確認しておくが、それはお前の経験談じゃあないよな」 ぐっと肩に置かれた手に力を込めるガイの表情は、笑っているくせに妙に怖かった。 内心だらだらと冷や汗をかきながらも、ここで本当のことを言えば何かが起きると思ったルークは迫力に負けてとりあえず頷いておいた。嘘をつくことの罪悪感は、ガイへのわけのわからない恐怖に比べれば綺麗に掻き消える。 あからさまに怪しいルークを、ガイはかなり訝しそうにしていたが、やがて肩の手が緩んで圧迫感から開放される。 「あんまり納得は出来ないが、とりあえず信じておく。というより信じたい」 「………」 「それに流石にプライバシーの侵害だしな。お前が何をしようとお前がいいなら俺がどうこう言えるものじゃないし」 「ガイ……」 「ただ、お前が誑かされてないかとか、変なのに引っかかってないかって不安なんだよ。俺が言うのもなんだけど、お前そういうのてんで疎いだろ」 「う……」 「心配が行き過ぎてうざいかもしれないけどな、俺はそれだけお前が大事なんだ」 「……うん、ありがと、ガイ」 「で、アッシュの奴は上手かったか?」 「それがもう何が何だかわかんなくて―――って!」 しまった、と慌てて口を覆うが言葉は戻らない。 なんて簡単な引っ掛け。なんて馬鹿な自分。ここ一番の大失態だとルークは心の中で自分を殴った。 すぐさまガイを見上げると、動かない親友がそこにいた。無言で不動。それは怒鳴られるよりも恐ろしいものがあり、ルークは言い訳をすることも出来ずにただ慌てるしかない。 そんなガイがまず動かしたのは腕だった。腰元の家宝の剣を撫で上げ、さらりと一言。「やっぱりあいつは斬っておくか」。 彼なりの冗談だと思いたいが、目がそれを否定していた。 過保護すぎる、といつになく思うルークだが、今それを言うのは自殺行為に等しいだろう。 ひとまずルークはガイの誤解を解くことにした。 「いやあの、したっつってもあいつが気まぐれにやっただけで、俺うるさかったし、ただ手っ取り早く口塞いだだけだって!」 「理由なんかどうでもいい。むしろ気まぐれと言われるほうが殺意が増す」 「あーもうとにかくそんな怒るようなもんじゃないって! だから―――って、あたたっ!」 必死にガイをなだめようとおろおろしながら奮闘するルークだったが、タイミングがいいのか悪いのか、覚えのある頭痛に頭を抱えた。 何もこんな時に現れなくとも、と思う頭の中で予想通りの声が響く。 「―――、アッシュ」 嬉しいはずのアッシュの通信だったが、今だけは気が重かった。 案の定アッシュの名を出せば、ガイはこちらに寄ってきて再び肩を掴んでくる。 「ルーク、アッシュが今どこにいるか聞くんだ」 「………。聞いてどうすんだよ」 ガイはふっと笑うだけで返事をくれなかったが、それだけでなんとなく察しがつくというものだ。 一波乱ある、と思ったルークはぶんぶんと首を横に振ってガイの言葉を拒否したが、アッシュがルークを通じてものを見ていることを知っているガイは、無視してルークの向こうのアッシュに向けて話掛けていく。 しかもこういう時に限って、簡単に居場所など吐かないだろうと思っていたアッシュは、案外あっさりとその口を割ったりするのだからたまらない。 アッシュの言葉はガイには聞こえないので、最終手段として嘘をつこうと思えば出来たのだが、ばれた後を思うととてもそうする気にはなれなかった。 結局近くまで来ていたアッシュの居場所をルークは伝え、今から楽しい逢瀬ということになった。 ■■■ 満月が綺麗だった。だがそれを楽しむ余裕はルークにはない。 おろおろする自分と、妙に据わっているガイと、「おもしろそうだから」という理由で付いてきたジェイドと。三種三様の空気を纏ってアッシュの待つ場所へとたどり着く。 街から少し離れたところでの落ち合いだったが、それを指定したのはガイである。人気が全くなく、どんなに騒いでも誰も来ないような場所を選んだのには、特に他意はないと思いたい。 傍の木に佇む姿を見つけても、ルークの表情は硬かった。 「一体何の用だ」 「あー……なんというか、さ」 理由が理由なので正直に話すことも憚られ、アッシュから視線を逸らして口ごもるのだが、ガイは単刀直入に話を切り出した。 「アッシュ、お前ルークにキスしたってな。ご丁寧に舌まで入れて」 改めて、そして第三者から言われると実に恥ずかしく、対峙しているのはガイとアッシュなのにルークだけが赤くなる。 言われたアッシュといえば、一瞬不機嫌そうにこちらを向いたものの、すぐにガイに向き直り嘲笑を返した。 「それが何だ。教えてくれとしつこく迫ったのはそこのレプリカだぞ」 「ちゃんと実践でして欲しいって言ったのか」 「さあな。そいつの言葉なんかいちいち覚えてられるか」 吐き捨てるように言われ、ルークの胸が少し痛む。 そうだ。アッシュとキスしたという事実だけで浮かれていたが、決して自分をよく思ってしたことではないのだ。 うるさかったから塞いだまでのこと。嫌いな相手にキスできるかといわれれば、ルークとしての答えは否だが、アッシュにとってその行為は大して重要なものではないのかもしれない。だからどんな相手とでも――憎い自分とでも出来たのだろう。 少し重くなったルークの空気を割ったのは、それまで傍観の姿勢を貫いていたジェイドだった。 「ではあなたは懸想故にルークに口付けたわけではない、と」 「……マルクトの軍人は頭がおかしいのか? なぜ俺がこんな鬱陶しいレプリカ野郎と!」 普段は流せる言葉も、落ち込んでいた身には少しつらいものだった。 「鬱陶しい、ね。それは嫌忌と取って構いませんか」 「……ああ、構わん」 「それほどまでの相手なら、もちろんどうなろうと知ったことではありませんよね」 「くどい! そうだと言っているだろう!」 思わず胸のあたりの服を掴んで俯くルークと、逆毛を立てるアッシュとを。 交互に見やってジェイドは優雅に微笑んだ。 「そうですか。では遠慮なく」 ぽん、と肩を叩かれ、ルークが見上げるといつの間にか傍にジェイドが立っていた。 いつの間に、と少なからず驚いて上げた顔に手が伸ばされ、顎を持ち上げられる。同時にジェイドのもうひとつの腕に腰を引き寄せられると、その密着度に何か思う前に唇に既視感を感じた。 遠い記憶ではないのですぐに何をされているのかわかった。アッシュにされた時も驚いたが、ジェイドでも同じくらいの衝撃だった。 押さえつけられているわけではないので抵抗は出来そうだったのだが、そうするにはジェイドの手と舌が厄介だった。口を開ければどうなるかはアッシュの時に経験したので、歯を食いしばってみたはいいものの、そんなものはジェイドの手練に容易く突破される。 口内に入った舌はまさに「いやらしい」としか表現できない動きでルークを苛み、腰のあたりをさまよう手がわき腹などを掠る度にルークはジェイドの腕の中で跳ねた。 誰もが突然の行為に呆気に取られて静まり返る中、ようやくジェイドが離れると、ルークは赤い顔をしてその場にへなへなと座り込んでしまった。 「これはなかなか。悪くないものですね」 ご馳走様。 その言葉に、言葉を向けられたアッシュと、そしてガイは我に返った。 「―――貴様っ!」 「ジェイド! いくらあんただってやっていいことと悪いことがあるだろう!」 掴みかからんばかりに二人はジェイドに怒りを向けるが、当の本人は愉しくてならないといった表情で笑うだけであった。 「すいませんねぇ、なにやらおもしろそうだったもので。しかしガイが怒るのはわかるにしても、アッシュ、なぜあなたまでいきり立っているのですか?」 心底不思議そうに尋ねてくるジェイドにアッシュの眉間の皺が深くなったが、それに対する返事はなかった。 奥歯を噛みしめる音まで聞こえてきそうなその表情を、ジェイドは含んだ眼差しで受ける。 憤りと笑顔と。しばらく視線を絡ませていた二人だったが、分が悪いと判断したアッシュは小さく舌打ちをすると、続いて未だ座り込んだまま呆けているルークへと矛先を向けた。 「この屑が!」 「え、ちょっ、アッシュ!?」 急にアッシュに腕を掴み上げられ、展開についていけないルークはせわしなく三人の顔を見やった。 だがもたつく足にも構わずアッシュは強引に進んでいき、ジェイドとガイの姿が遠ざかっていく。 呼び止めるガイの声があったが彼は隣のジェイドに押さえつけられており、アッシュに引かれるままの体ではすぐに姿は見えなくなってしまった。 二人の姿が見えなくなった場所まで来た時にやっとアッシュの足は止まった。 だが落ち着く間もなく彼は怒りのこもった視線でルークを睨んでくる。 振り払うように手を離され、その強引さと痛みに顔を顰めたが、アッシュが口を開くほうが早かった。 「てめぇは、あんな奴に好きにされて抵抗もできねぇほど弱いのか!」 「っ、出来なかったんだからしょうがねぇだろ! 俺だってしようとした! でもジェイドが……!」 「うるせぇ! そんな奴の名前なんか喋んな!」 そして再びぶつけられるように唇が塞がれ、ルークはいよいよ混乱した。 思わず突っぱねた手はアッシュの体を遠ざけることなく、痛みを覚えるぐらいの強さで両脇に押しやられる。息苦しさに顔を逸らそうとしてもアッシュはそれを許さず、彼が醸す怒りの気迫にルークは戸惑うばかりだった。 「あんな奴に……」 息継ぎの合間にアッシュが呟く言葉も、すぐにまた口を塞がれて考える余地がなかった。 アッシュの動きに翻弄されると、つい先ほどのことなのにもうジェイドの感触は思い出せない。 なぜ彼がこうするのかはわからないが、それでもこの行為は自分が欲していたもので、アッシュに侵食されていく感覚に体が震えた。 互いの体が離れた時、アッシュもルークも息が上がっていた。 見詰め合ったまま無言で息を整えると、切なさは疑問になって口をついていた。 「嫌いなのに――」 「ああ?」 「俺のことなんか嫌いなくせに、なんでこんなことすんだよ……。これって、普通好きな奴相手にするもんだろ? ジェイドは面白いことのためならなんでもするからだろうけど……でもお前は違うだろ」 浮かぶのはアッシュと将来を誓い合った少女の顔だった。 おそらくこれを知ったら彼女は悲しむ。そんなことを許せるはずのない一番の人物がアッシュのはずなのに。 「……言っておくけど、嫌がらせだとか言うならそれは逆効果だからな。俺は本当にどうしようもないからそうされて喜んじまうし」 自分は一体アッシュの何なのだ。 その言葉は飲み込んだが、アッシュを見つめるルークの目は雄弁にそれを訴えていた。 アッシュが自分をどう思っているかなんてとうにわかっている。侮蔑、嫌悪、およそその類全てのものだ。しかしいくらなんでもこのままでは馬鹿な勘違いをしそうになってしまう。 後からの拒絶を思うだけで息が詰まりそうなほど胸が苦しくなるのに、その微かな期待を捨てられない愚かな自分。一度仲間から見捨てられた自分だからこそ、その辛さを知っているというのに、本当に救いようがない。 それでも今ならまだ多分間に合う。その前に明確な言葉で切ってほしい。 そう思ってアッシュを見つめるも、逆光でアッシュの表情はあまりよくわからない。 だからルークは言葉を待った。 「てめぇで考えろ」 しかしそれでもアッシュは答えをくれなかった。 自分で結論を出せ、とまたしても肝心なことは何一つ言わないでルークを突き放す。 その表情も口調も、決してルークの期待するようなものではない冷たいもので、やはり彼に嫌われているのだと、どこか安堵すら覚えた。 それなのに、次に落とされたキスは今までで一番穏やかでやさしくて。 ルークの心をいたずらに掻き乱していった。 |