「ええ、もう随分と昔のことですけれど」 そう言って笑うナタリアは本当に嬉しそうで、ルークは作った笑みしか浮かべることが出来なかった。 ■■■ アッシュの笑った表情を見たことがあるか。 始まりはそんなアニスの軽いの疑問からだった。 いつも無愛想で、眉間に皺を寄せて怒ったような表情ばかりを見せるアッシュの笑みは一体どんなものなのだろう、と。 同位体だからルークが笑った顔と同じだろうと仲間たちは言い、そして各々にルークの笑みとアッシュの容姿を重ね合わせては、違和感があるだとか、想像がつかないだとかと零しながら穏やかに道中を歩んでいた。 皆に倣ってルークもアッシュの笑みを想像してみたのだが、普段己に見せる憤りの表情が強くてなかなか上手く思い浮かべられない。 見慣れた自分の顔から想像すればいいのだと思っても、アッシュと己は別個体だという意識がどうしても強くて結局像は生まれなかった。 そしてジェイド以外がルークと同じような難しい表情を見せる中で、ふとナタリアが思い出したように呟いたのだ。 ――私、幼い頃ならアッシュの笑顔を見たことがありますわ。 どこか懐かしい目だった。 その呟きに興味を持ったアニスに詳細を促されると、当時の状況を思い出しているのだろう、上目を向きながらしばし首を傾げ、そしてナタリアは柔らかく微笑んだ。 ――そうですね……将来のことを話している時、でしたわ。土地と民を豊かに導くのだと、決意しながら浮かべる笑みは幼心にも頼もしく感じたものです。 それを聞いて、まずルークが感じたのは胸の痛みだった。 アッシュは何事もなければバチカルの将来を背負って生きていくはずだった。 ナタリアを后に迎え、王になり、どこよりも豊かで恵まれた大地と民の笑顔を絶やさない良い国を作る可能性を持っていた。 だがそれは自分というレプリカの存在で全ては無になり、それまでアッシュがいた場所には紛い物が据えられることになる。おそらくアッシュの笑みはここから失われたのだろう。 それでも今は身近な者はアッシュが被験者だとわかっているので、アッシュさえ望めば今からでもファブレ家の後継ぎとして生きていけるはずだ。ナタリアとの婚約も順調に進み、アッシュの望んだ国が作れる。 そうすればナタリアが見た笑みも、彼に戻るかもしれない。 だが少なくとも自分は、自分だけは、この先アッシュの笑みを見ることはないのだろうと思うと、心からよかったと思うことは出来そうになかった。 我侭だとは思うが自分だってアッシュの笑った顔が見たい。笑顔を向けられたい。一緒に笑い合いたい。 だがそうさせる素材を自分は一つも持っておらず、あるのは怒らせる材料だけである。 それでも何かひとつぐらいはあるのかもしれないと、あまり早くない思考回路をフル回転させたが、どうしても見つからない。 こんな時、いつも自分たちは同位体ではなく、全くの他人で出会えていたらと考えてしまう。 それはくだらない仮定で、被験者とレプリカという関係でなかったら自分の存在などありえず、笑顔はおろか、怒り顔も、アッシュという存在のかけらすらに出会うことはなかったのだが、置かれる状況が辛すぎると逃避に走ってしまう。 一方通行は辛いな、とナタリアの笑顔に嫉妬する自分を自覚しながらルークはため息をついた。 そんな時だった。 「―――っ、いてててっ」 『おいレプリカ』 「え、アッシュ……?」 噂をすれば、とでも言うのか、突然件の人物から通信が繋がった。 慣れることのない頭痛だが、痛みなどアッシュと会話できることに比べたら全然大したものではなくなる。 アッシュの名を出して仲間が一様にこちらを向くのにも構わず、ルークは全神経を彼との会話に傾けた。 「どうしたんだ? 何かやばいことでも?」 『―――いや、今は特に怪しい動きもない』 ならば何の用があって、と思いはしたが、口にしたらそのままアッシュは回線を切ってしまいそうで、ルークは口をつぐむ。 戸惑いの空気だけがアッシュに送られ、少しの間静寂が落ちた。 「……アッシュ?」 『……今夜……に出て来い』 「は?」 ようやく発せられた言葉。 しかし聞き取りづらい箇所があたので思わず聞き返すと、やはりというか蔑んだ口調で罵られた。 『耳も劣化しているのかお前は。……渡すものがある。今夜一人で街の外に出ろ、俺は入り口にいる』 「え、なんで一人?」 『お前に話す義理はない』 「え、あ、ちょっと待て! アッシュ! ――あ」 ぶつりと一方的に切られてしまった回線に、ルークは大きく肩を落とした。 今更だがアッシュの勝手さにはため息が出る。せっかくなのだからもう少し長く話してもいいと思うのだが、アッシュは本当に用件しか話さず、しかもその用件すら肝心なことは言わない。 治まった頭痛をどこか名残惜しげに感じていたとき、はっと気が付いてルークは振り返った。そこには想像通り興味深そうに十の目がこちらを眺めていた。 彼らの存在を忘れて回線に耽っていたことに気まずさを感じつつ、首の裏をぽりぽりと掻きながらなるべく平静を装って今あったことを話す。 「なんか、今夜渡したいものがあるから俺ひとりで街の外来いって」 それを聞いて、ナタリアがあからさまに落胆の表情を浮かべるのが目に入った。 それはそうだろう。焦がれてやまない相手からやっと連絡が入ったと思ったら、自分のことは話に出ないで他のものに用があるのだ。使いの立場を変わってやりたい気もしたが、卑怯な心がそう告げることを拒んでいた。 おそらくナタリアを連れて行ってもアッシュは彼女には強く出ないだろう。だがそう思いつつも、ルークの口からそれを持ちかけることはなかった。我ながらずるいと少し胸が痛むが、それでもアッシュと二人で話してみたい。 「ルークひとりって……おいおい、俺らの知らないところでやりあって共倒れなんてよしてくれよ」 ルークを特定されたのが引っかかるのか、ガイは不審そうに眉間に皺を寄せていた。 確かにこういう仲なので、ガイの言うようなことが絶対にありえないとは言えない。こちらもいくらアッシュを慕っていようとも腹が立つときは立ち、売り言葉に買い言葉でじゃあ決闘だ、という展開は結構容易に想像できる。 「でも、俺もあいつと色々話したいことあるから行ってみたい」 駄目だろうかと渋い顔をしているガイを見つめると、彼はため息交じりでジェイドの方へと視線を向けた。 「だそうだが、どうする大佐」 「そうですね、最近の彼を見ていると少しばかりは丸くなったようですし、何を渡されるのかも気になります。わざわざ回線を繋げてくるのですから、我々の今後の戦いに有利なものかもしれませんしね。彼の機嫌を損ねてそれが受け取れなくなるような自体は避けたい。となれば反対する理由はありません」 メンバーの頭脳からあっさりと許可が出たことにルークに笑みが浮かぶが、ガイは変わらず渋い顔だった。 心配してくれることにありがたさを感じつつ、なるべく喧嘩にならないようにするから、と窺い申し立ててみると、ややあってようやく苦笑とともに髪をくしゃりとかき混ぜられる。 「わかったよ。仲違いするかもって距離を置いてたら、仲良くなれる機会もなくなるもんな」 「そんな心配すんなよ。確かにあいつも俺もあんまりこらえ性ないけど、なるべくあいつを刺激しないようにするからさ」 「そうあるように願ってるよ」 「って!」 からかうような口調の最後に額を指で弾かれ、思わず睨んだ先にはガイの苦笑は消えていた。 信頼してくれているのだろうかと思うと額の微かな痛みも感じず、感謝の意をこめて肩を叩く。 ガイの信頼を裏切らないためにも、今日は何があっても口はともかく手は出さないでおこう。 仲間の許可は出た。 となれば後はもう夜になるのを待つだけであり、ルークははやる心を押さえながらその後の時間を過ごした。 ■■■ そして夜。 あたりが闇に包まれて月が綺麗に映えるようになる頃、ルークは仲間に声をかけてから街の外へと向かった。 周囲を見回して目当ての人物が見当たらないことに少し不安になったが、まだ夜は長いと壁に背を預けて座り込む。 これから何を渡され、何を話すのだろう。 想像すればどうしても頬が緩んでしまうが、誰も見ていないのだからと堪えることはしなかった。 「何馬鹿面晒してるんだてめぇは」 「アッシュ!」 いつの間にいたのか、すぐ傍にアッシュが佇んで自分を見下ろしていた。 間抜けな顔を見られていたのかと羞恥を感じたが、アッシュが背を向けて歩き出したのですぐにそれどころではなくなる。 どこへ行くのだと聞いても「うるせぇ」と相手にしてもらえず、わけもわからないまま無言の背中を追いかけた。 そして街からほんの少し外れた林の入り口まで来てアッシュの歩みは止まり、月の光もあまり届かない薄暗い中でアッシュは切り出した。 「今度バチカルへ戻った時でいい。これを母上に渡せ」 そう言って伸ばした手の中には小さな袋がひとつ。 何だ、と疑問を顔に出しながらアッシュを見ると、茶葉だ、と返ってきた。 「以前母上が好きだったものだ。今は幾種もの葉を配合出来る者が減り、売りに出されなくなったものを偶然手に入れた」 「でも、それならアッシュが……」 「お前が渡せ。そして俺の名は出すな」 「ちょ、それは――」 「うるせぇ!」 思わず返しそうになった言葉は強い口調で遮られた。 驚きで一瞬すくんでしまったが、しかし納得は出来ない それほど希少な茶ならばそれだけで母は喜ぶだろうし、ましてそれがアッシュからだと知ればどれほど彼女は嬉しく思うだろう。 けれどもアッシュは苦労して手に入れたかもしれないそれを自分に託し、名前すら出すなとまで言う。 そうしてまであの家を拒否するアッシュが悲しく、そうさせた原因が自分なことに更に胸が痛む。 「用はそれだけだ」 そして項垂れるルークをどうするでもなく、アッシュは普段通り踵を返して道を戻り始める。 だがそれが嫌だったルークは、咄嗟に彼の服の裾を掴んでこの場に引き留めてしまった。 「……何の真似だ」 案の定不機嫌そうな声で振り向かれ、ルークは返事に困ってしまう。 咄嗟の行動だったので、その後のことを問われても何も言うことがない。 「あ、いや。その……」 「用がないならさっさと離せ。俺はお前と違って暇じゃないんだ」 「よ、用ならある!」 「なら早く言え」 「うぅ」 もちろんでっちあげたものなので言葉は続かない。 無言で促すアッシュの顔を焦りながら見ていたが、なかなかいい考えが浮かばずただ焦るばかりである。 そうこうするうちに嘘だと気付いたらしいアッシュが再び歩もうとしたので、この際どうなってもいいとばかりにルークは本心で体当たりをすることにした。 ぎっと睨むようにアッシュを見上げ、握った拳に力を入れる。 「い、いっつもお前は好きなときに回線繋げられるかもしれないけどな、こっちはお前が言うように劣化してるからどうなのか俺から連絡取ることは出来ねぇんだよ!」 「それがどうした」 「会いたい会いたいって思ってて、でも全然会えなくて! 禁断症状出るかと思った時にやっとお前から連絡来てこうして会えたんだ。もう少し一緒にいてくれたっていいだろーが!」 そう一気にまくし立てると、目の前のアッシュの動きは固まっていた。 どうせ自分のことを頭がおかしいのだとか思っているに違いない。これほどまでに嫌われている相手に「もっと一緒にいたい」と言っているのだ。自分だって不毛なことを言っている自覚はある。 「……気でも触れたのか」 「ああもう、絶対言うと思った! でもなアッシュ、今日は言ってやる。お前がどれほど俺を憎んでいても、俺はお前を憎んだり嫌いになったりなんかできねぇんだっつの! こっちは嫌われててもいいから、傍にいて欲しいんだよ馬鹿!」 「お前……てめぇで何を言ってんのかわかってんのか?」 「そんなのわかってる!」 ぎゅう、と衣服を掴みながら強くアッシュを見据えると、怒鳴るだろうと思った彼は深いため息を吐くだけだった。 軽蔑、もしくは大きく呆れているのだろう。 もしかしたら怒られるよりもそっちの方が悲しいかもしれないと感じた時、アッシュはもう一度短く息を吐くと一度逸らした視線をルークに向けてきた。 「とりあえず離せ馬鹿」 「嫌だ」 これを離したらアッシュは行ってしまいそうで、ルークは更に強く布を握り締めた。 「行かねぇから離せ」 「……嫌だ」 信じられず、子供のように首を振る。 そうすると大きな舌打ちが鳴った瞬間に手の中の布が引っ張られ、強かに膝を地面に打ち付けてしまった。 痛みを感じつつも手が裾を離していないことを確認することの方が大事であり、変わらず手に握られているものを見て安堵の息が出る。 そして少しばかり冷静を取り戻した後、何が起こったのだろうと状況を確認すればルークの目が大きく見開かれた。 「アッシュ……」 目の前に腰を下ろしているアッシュ。 その意味を考え、ルークの顔がやわらかくほころぶ。 すぐに忌々しげな舌打ちとともに「離せ」という言葉が降ってきたが、ルークはその言葉を聞き流すことにした。おそらくこの手を離しても本当にアッシュは去らないのだろうが、今となってはなんとなく離し難い。 一向に手離す気配のないルークにアッシュは眉間の皺を深くしたが、それ以上何かを言うことはなかった。 アッシュが座っている隣に自分も移動して、木の幹に背を預ける。 「それで、何がしたいんだお前は」 「あー……悪ぃ、特に何も考えてなかった。ただ会いたいってだけを思ってたからなぁ」 「ふざけてんのかてめぇ」 「だってこうして隣にいてくれることだけで嬉しいから」 傍で存在を感じられて、確かに無事でいることを見られればいい。 それだけで心は穏やかになるし、満たされもする。 いくら回線があるとはいってもこちらからは繋げられず、こうして直に姿を見ること以上に安心出来るものはない。 「まあ、アッシュには無理させて悪ぃなーって思うんだけどさ。ごめんな、レプリカのくせに被験者に迷惑かけて」 「……レプリカが存在してるという時点で迷惑は被っている」 「……うん。本当ごめん。色々いっぱいごめん。アッシュを楽にするには俺が消えるのが一番だってわかってるんだけどそれもできなくてごめん。俺がいる限り笑顔なんか見せられないだろうに……それでもアッシュの傍にいたい俺でごめん」 言いながら、また卑屈だの鬱陶しいだなどと罵られるのを覚悟したが、しばらく続いても罵声はなくアッシュは無言だった。 また呆れて言葉が出ないのだろうか、と恐れながらも言葉は止まらず、ルークは今言いたいことをあらかたアッシュに語った。 邪険に扱われてもこちらはアッシュを求めていること。 自分が鬱陶しくてなかなか連絡を寄越さないのはわかっているが、ならばせめてナタリアのためにも定期的に連絡は欲しいということ。 そして出来るなら回線ばかりではなくこうして無事な姿を見せて欲しいということ。 言い切り、俯いていた顔を上げておそるおそるアッシュの反応を窺うと、彼は無表情で一言落とした。 「本当にうぜぇなてめぇは」 ただそれは言葉ほど蔑んだ様子もなく、呆れているわけでもなさそうだったので、もらって嬉しい言葉でもないのにルークが感じるのは喜びだった。 口調が、いつもと違って刺々しくなかった、ただそれだけで胸があたたかい。 切り捨てるでなく、遠回しに受け入れてもらえたような気がするのは自分の都合のいい思い込みなのだろうが、今は突き放されないだけで嬉しかった。傍にいたいと言って、少なくとも今はアッシュはここにいてくれる。 例え笑みを見ることは出来なくても、今はその事実だけでルークは笑顔になれた。 そこからは特に会話らしい会話もなく、微かな他愛もない会話と静寂が交互に並んだ。 アッシュは相変わらずルークにきつい言葉を吐いたりするが、それでもルークの心が痛むことはなかった。本当に嫌ならアッシュはここから去るだろう。 そして喋り疲れたのか気が緩んだのか、静寂の間の微かな間にいつしかルークは眠ってしまっていた。 ■■■ 「……クソ重てぇ」 目の前ゆっくりとずれ落ちる頭。 このままでは己の肩にルークの頭が乗るだろうということはわかっていたが、アッシュはそれを避けることはせず、予想通りルークの重みが肩にかかってもそれを振り払うこともなくじっとしていた。 思っていた以上に重みがある頭は、アッシュをとても複雑な気持ちにさせた。鬱陶しい、重い、動けない。そんな三拍子がそろっていても触れた部分から感じられる相手の体温に振り払うことは出来なかった。 眠っていても裾を離さないで穏やかに寝息を立てる己のレプリカを見やり、静かに呟く。 「……屑が」 月の向きが傾き、淡い光が木々を抜けて差し込んでくる。 その口元を照らした時、微かに、だが確かに口角が上がっているのを見た者は誰もいなかった。 本気でアッシュのステータス画面をルークに見せたいです。 |