どうしてあんなことをしてしまったのだろう。 離れた場所からも漏れる楽しげな雰囲気を感じ取りながらルークは項垂れた。 その日は倒したモンスターが普段よりも多かった。当然前衛の運動量はそれ相応のものになり、あらかたモンスターを片づけた時にはしばらく立ち上がりたくないほどに疲弊していた。 しばらく休んでいれば疲労そのものは割とすぐに癒されたのだが、問題は空腹だった。 疲労の代わりとでも言うようにぐるるると腹の狼が鳴き出し、胃がきゅうと縮むような独特の感覚でルークに訴えてきたのである。 その後の野営中、そんな状態のルークに周囲に漂う調理中の匂いは拷問に近かった。 つい沸き起こるのがつまみ食いという甘美な誘惑だったが、即座に首を振って邪な思いを捨てようとした。そんなことがバレようものなら、どんなことを言われるかわかったものではない。貴族だというプライドも少しはあった。 しかしそう決意しても美味そうな匂いが鼻をかすめる度に腹の狼が唸り声を上げ、まだまだ完成にはいたらなさそうな状況に意志はもろく崩れ去っていった。 そう間を置かずして完全に瓦解したとき、最早ルークの頭にはつまみ食いのことしか考えられなかった。 ほんのちょっと摘まんで、それに満足して、完成を待つ。それがルークの予定だった。 ただ、今回の料理人はジェイドであったので細心の注意を払う必要があった。仲間の中でも特に何を言われるか、されるかわかったものではない。 相手を恐れながらもゆっくりと抜き足差し足忍び足で更に近づき、目標との距離を縮める。 あと少し、あと少しと美味そうに湯気を上げている料理に手を伸ばし「いける」と頬を緩めたときだった。 『つまみ食いは重罪ですよ』 『!!』 まさか気付かれていると思わなかったルークはその声にびくりと肩を揺らし、反射的に伸ばした手を引っ込めてしまった。 『―――あっ!』 しかし恐怖交じりの焦りが悪かったのか、手が皿の淵に当たってしまった。 しまったと思ったが全ては遅く、それはルークの目の前で地面へとひっくり返ってしまう。 逆さまになった皿と料理。 四方に散らばる中身。 これはやばい、とルークの顔は一気に青ざめた。料理をこんな風にしてしまったことにもだが、何よりこれをこしらえたのがジェイドだということだ。 そして立ち尽くすルークのもとに、ジェイドがゆっくりと歩み寄ってくる。落ちた料理を見やっても特に反応もないことがとにかく怖く、その口から言葉が出るのを待つ時間は審判待ちの罪人の気持ちそのものであった。 そして――― (何で出来上がるまで待てなかったんだろ、俺……) あの後、ジェイドはルークをその辺の木に縛りつけ、「餌を与えないでください」という文字が書かれたプレートを首にぶら下げて放置した。 おかしな姿になったルークを仲間たちは笑いながら見物し、ここぞってつまみ食いという罰を犯したルークに説教を落としていった。自業自得と分かっていながらも少しばかりむっとしたが、全面的にこちらが悪いので反論することもできなかった。 その間に料理を作り直したらしいジェイドが皆を呼び、今は彼らだけで夕食となっている。もちろんルークにその資格は与えられていない。 (ちくしょういいなぁ……) 「夕食抜き」という罰則を与えられたルークには、漂ってくる香りと楽しそうな笑い声たちがひどく羨ましかった。あんな真似をしなければ今頃は自分だって、と思うと尚更後悔が強くなる。 腹の狼は相変わらず絶好調で、今も元気に唸ってはルークを暗い気持ちにさせていた。 いつまでこの拷問じみたお仕置きは続くのだろうとため息をついたとき、遠くで草を踏む音が聞こえた。もしやモンスターかと、目を剥いて音のした方に顔を向ければ、できることなら会いたくない人物がこちらへ向かってきているようだった。 相手もこちらに気付いたようで、それまでの普通の仏頂面が急に引きつったものに変わった。 また馬鹿にされる、と苦々しく思ったルークだったが、アッシュはルークとなるべく視線を合わさないようにしてそのまま前を通り過ぎた。 「―――っ、おい、無視かよ!」 思わず声をかけると、ようやくアッシュは忌々しそうな表情を隠さないでルークの方を向いた。 「そんな扱いを受ける奴など知るか。関わりがあると思われたくもない」 言い返したい言葉はあったが、その目線が首にかけられているプレートにあることに気付くと何も言えなかった。 視線を逸らすルークを放置し、アッシュは少し離れた場所から漏れる明かりの方へ顔を向ける。そして再び哀れなことになっているルークを見返し、何がどうなってそうなっているのかの説明を半目で求めてきた。 しかしこれほど馬鹿なこともない。ついついアッシュの視線を避けてしまうが、この姿を見られている以上はかなり今更なことだった。 仕方なくもごもごと口ごもりながら経緯を吐露すると、馬鹿にした視線とため息が返される。 「……それで貴様はこんなアホな格好で飯抜き、か。どんな教育を受けてきたんだお前は」 「だって腹減って腹減って……そんな時にむちゃくちゃいい匂いがしたらああもうこれは食うしかない! って思うだろ」 「思うか馬鹿」 吐き捨てるように言われて少々気分が害されたが、その怒りも空腹の前では長続きしなかった。 「ああ……腹減って死にそう……」 正直なところ、夕食抜きという罰がこれほどの威力があるとは思わなかった。 身体的にも精神的にも苦痛を感じる、実に手軽で効果的なお仕置きであると体験している身からそう言える。おかげでルークはずっと反省しっぱなしで、おそらく今後二度とつまみ食いはしないだろうことが自分で予想できた。 もう一度「死にそう」とこぼすと「死ね」なんてアッシュが心ないことを呟いてきたが、もうそれに反応する元気もない。今ルークの心の中には向こうで食されているだろう料理品のことばかりだった。 匂いから品名を想像しては口惜しい思いをしていると、ふと今までとは違った種類の匂いが鼻をかすめた。 腹の狼がたまらず唸り上げるようなそれを犬のようにくんくんと嗅いでいると、出どころが仲間たちの方ではなく、すぐそばであることに気がつく。 「ん? あれ? アッシュ、もしかして何か持ってるのか?」 「馬鹿にやるものはない」 問えば、アッシュは即座に言い放ってきた。 その答えに彼が何か食べ物を持っていることを確信したルークは、羨ましいという顔全開でその食べ物は何かと重ねて問う。 欲しいなんて言わないから、と控え目だが必死に訊ねてくるルークをアッシュは端から信じていないようであったが、それでもしつこく聞いているとやがて溜息とともにそれは出された。 「うわ、肉まんじゃん!」 ただでさえ好物のそれを、この空腹時に見せられてルークの目がきらきらと輝いた。 欲しい、と直感的に思ったがしかし先ほど自分で欲しがらないからと言ったばかりである。そもそも罰を受けている最中に食べ物を恵んでもらえば、それこそ後が怖い。 見るからに美味そうな肉まんを心では諦めようと頑張ったが、しかしどうしても視線は外すことができなかった。匂いがこれまた強烈であり、腹の狼はもう夢中である。 食べたい、いや駄目だ、と葛藤し続けていると、呆れた声がかかる。 「……ったくこの屑が。やればいいんだろやれば」 「え、でもこれってアッシュのだろ? それに」 「いいから食え。で、腹鳴らしっぱなしで今にも涎たらさんばかりのその馬鹿面をとっとと収めろ」 言葉は乱暴でも、差し出された肉まんに感動してルークは言葉に詰まった。 無理だと諦めていたことが今目の前にある。あまりに嬉しすぎて、罰を受けている最中であることを忘れたほどである。 それでも本能が働いたのか、頭がジェイドの顔を浮かび上がらせてこの後の恐怖を知らせてきた。罰の最中にこの肉まんをもらえば、きっと今以上に辛いお仕置きがジェイドの笑みとともに待っているのだろう。しかし今のこの状況を逃すことはどうしてもできなかった。 とにかく腹がすいているということもあるが、何よりもアッシュの好意を無碍にしたくなかった。貴重なアッシュの恩恵はできることならすべて拾いたい。 追加の罰ならいくらでも受けることを覚悟し、ルークは肉まんを受け取ろうとした。 「―――あ」 しかしここで重大なことに気がついた。受け取ろうにも、肝心の手が使えない。 アッシュもそれに気付いたのか、途端に嫌そうな顔を見せた。 ちらりとルークに巻かれているロープの結び目を見やると、更に不機嫌は上乗せされるようだった。おそらく一度ロープを解いて、ルークが食べた後でまた巻き直せばいいと思ったのだろうが、しかしジェイドにぬかりはなかった。 彼はあまり常用されていない小難しい結び目でもってルークを縛ったのである。 つまり一度解いてしまえば、同じようには結べない。 残る手段はひとつとなったが、ルークはそれを口に出せなかった。食べ物をもらう身でありながら、さらに面倒な、そしてアッシュにとってはかなり抵抗があるだろうそれを請うなど、とてもじゃないが出来そうになかった。 場に沈黙が落ちたが、ややあってアッシュは舌打ちをした。なんとなく申し訳ない気分でいると、アッシュはルークの目の前でグローブを外し、手の中の白い塊を小さくちぎり出す。 まさかと思いながらそれを見ていると、腕は、ルークの方へと差し伸べられた。 「え、嘘、マジで……!?」 「うるさい、さっさと食え」 「―――あ、ああ」 戸惑いながら口を開けると、丁寧とは言い難いがちゃんと口内にそれは入れられた。 瞬時に広がる味に、揺れた心など忘れてだらしなく顔の形相が崩れる。冷め始めていた肉まんは、しかし普段ルークが口にするものよりも随分と美味に感じられ、一口噛むごとにルークの心を目一杯あたためた。 口の中のものがなくなるとアッシュはちゃんと次を差し出してくれて、その絶妙なタイミングに感動が増す。 二度目の欠片は、あまり細かくすると面倒だと思ったのか初めのものより幾分か大き目だったが、それが嬉しくて急くようにして首をのばした。 「あ」 だが受け取るタイミングが少しずれ、欠片をやや口の端の方で挟んでしまった。その拍子に具材が顔に付着し、幼子のように口元を汚してしまった。 手は使えないので行儀は悪いが舌で取るかと思いながら咀嚼していると、ふいに伸びてきた手がルークの口元を拭った。 「がっついて食うな」 「あ……わ、悪ぃ」 親指の腹についたそれを自分の口に運ぶ一連の流れに、ルークは顔を真っ赤にして視線を逸らした。断じて嫌だったわけではないが、とてつもなく心臓に悪い。 アッシュはそうでもないのか、いつもの表情で肉まんをちぎって自分の口に入れている。今のことが頭から離れずつい長く見つめてしまうと、それに気付いたアッシュと目が合った。 「……なんだ。俺のものを俺が食って何が悪い」 「い、いや、それは全然いいんだけどさ」 「ちゃんと半分に分けてやるから文句は言うな」 アッシュはどうやら誤解をしているようだったが、訂正はできなかった。 下手に口を出してアッシュを刺激したくなく、そして意識しているのが自分だけだと思うと恥ずかしい。 一人で悶えていると、再び肉まんの欠片を持ったアッシュの手が差し伸べられる。そして今までは肉まんを味わうことにばかり気を取られていたが、改めてこの状況を思うと涼しい場所だというのに頬は熱を持った。一度意識したら最後、もうどきどきは止まらない。 気付かれないようにと願いながら口を開けると、そんなルークの努力も知らずにアッシュは「餌を待つひな鳥だな」と幾分愉しげに目を細めてきた。 駄目だ、降参、とルークは白旗を上げた。嬉しい。この状況はとてつもなく嬉しい。 肉まんが美味いことだけでも喜びだというのに、アッシュがやさしいときている。罰を受けているはずなのにこれでは褒美だった。手ずから欠片を寄越してくれる度に胸がきゅうと縮むような感情が溜まり、一口噛むごとにアッシュへの愛しさが募っていく。不自由な身もたまにはいいかもしれないととんでもないことまで思った。 だが同時にそれが焦れったくもあった。 どんなにアッシュのことを想っても、今こちらから彼に触れる手段はなにもない。 触れたい、抱きつきたいと、出来ないからこそなおのこと強く感じてしまう。記憶にある感覚が欲しくてたまらなかった。 腕をまわしたときに絡まる髪、体温、締め付けられる腕の心地よい囲い。それらを感じる機会をつまみ食いでなくしてしまったというのなら、とんでもなく自分は大馬鹿者だ。 空腹よりも、アッシュに触れられないことが何よりもつらい。 「そんな顔するぐらいなら最初からつまみ食いなんかするんじゃねえよ馬鹿」 思いが顔に出ていたのか、アッシュはややへこみがちなルークの額に掌を当て軽く持ちあげた。 眉根を寄せる顔から微かな気づかいを感じ取り、ルークの愛情がさらに募る。おそらくまだアッシュは腹が満たされないことに憂えていると思っているのだろうが、その思い違いも気遣いも何もかもが愛しかった。 「……なあアッシュ、お前この後急ぎの用でもある?」 「……何が言いたい」 「ないならさ、頼みがあるんだけど……」 早く先を言えと促すアッシュに照れを感じつつも、だがはっきりとルークは告げた。 「俺、どうしてもアッシュに抱きつきたいから、俺の罰終わるまでここにいてくれるか?」 ぎゅうと抱きしめ、ありがとうと伝えたい。 固まるアッシュを眺めつつ、その時が来ることを早くと待ちわびた。 実験的にちょっとアッシュの反抗度を抑えてみました。 背後で、ルークのごはん持ってきたけど苦笑しながら肩をすくめ合ってるガイとジェイドがいたのですが出せませんでした…。 |